Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

全国的に大雪で大混乱 シェリル・ロバートのこと、

 24日(火)お誕生日だった。Facebook友人がメッセージを送ってくれた。ありがたいことだ。一日中、心は晴れやかだったが、午後5時頃から吹雪となり、夜中積雪がつづいた。ベランダの植木は全部雪帽子をかぶっていた。霜枯れしないようにと願いながら、雪を払ったが、どうなるのだろうか。心配。交通機関に大混乱が起こったようだ。5時過ぎに、高槻あたりから、大津まで帰るのに、途中で何度も停止したまま、さらに気分が悪くなった乗客を救急搬送するのに停止。湖西線の運休。山科で京阪京津線に乗り換え、浜大津まで。京阪石山坂本線の運休。再開。普通には30〜40分で帰宅できるのに、4時間近くもかかったという。京都駅も山科駅浜大津駅も人で溢れかえっていたという。こんな時のための対策は一切なかった。雪国では交通機関の雪対策はできている。京都でも滋賀でも、「暖かい冬」に甘んじて、スノータイヤを履いていない自動車が立ち往生して、どちらにも動きが取れず、余計に混雑を複雑化したようだ。

 

 25日(水)朝起きてみると、目の前の山や河原に雪が積もっていた。ベランダの植木鉢は大雪をかぶっていた。真っ白な綺麗な雪だが、交通機関をズタズタにしたことが報道されていた。新名神高速道路名神高速道路での立ち往生の状況は異常。事前にわかっていても、何の対策も無意味だったのだろうか。

 Facebookを見ていたら、友人の投稿でCheryl Roberts(60)が昨年10月に亡くなっていることを知った。すごくショックだった。彼女は1992年のスペインのバロセロナで開催されたオリンピック大会で、卓球の選手として、南アフリカ代表として出場していた。南アフリカは人種隔離政策(アパルトヘイト政策)をとっていたために、オリンピック参加が認められなかった。1991年にアパルトヘイト政策撤廃を宣言したことで、オリンピック参加が認められた。そのことで、シェリル・ロバートはバロセロナ・オリンピック大会で女子卓球選手として参加できた。シェリルは第三代国際卓球連盟会長荻村伊智朗のことを英語で書き、日本語に翻訳されている。おそらく、シェリルが南アフリカ代表として、国際競技に出場できるには、日本も含めてさまざまな機関から財政的支援を受けていたのだろう。シェリルは、そうした資金で女子スポーツ選手の育成につとめ、「非白人」の恵まれないスポーツ選手を応援してきた。自ら、スポーツ記事を書き、ニュースレターも発行していた。全身全霊をこめて、スポーツの育成に力を入れていた。私は1994年にケープタウン郊外にあるウェスタン・ケープ大学で研修していた時に出会い、長年の付き合いをしてきた。ときどき帰宅途中で、彼女の家に立ち寄り、おしゃべりをしたり、散歩をした。いつも忙しくしていて、できたてのニュースレターをよく見せてくれた。手作りだが、若い女子スポーツ選手を激励し、さまざまな方面から援助していた。ある時に電話をかけてきて、ニューランドのスポーツ競技場に来るようにと言った。出かけていくと、地元の女子スポーツ選手の練習試合だった。10年ほど前のことなので、何のスポーツだったか忘れてしまったが、写真がどこかにあるので、みればわかるだろうが、サッカーだったような気がしている。。。彼女はみんなから尊敬され、慕われているのが一眼見てわかった。後になってわかったことだが、私の親しい友人たちとも、親しい関係にあり、同じサークルの中で生きていた。彼女とはFacebookでは繋がっていたので、なんとなくいつも会っている感覚だった。私がFaebookにあげるものには、いつも「いいね」を押してくれていた。そして彼女のFacebookは今も存在するので、みてみると、なくなる数日前まではずっと書いていた。ときどき一人で朝早くシグナルヒルを散歩する姿があった。もう会えないかと思うととても寂しくなった。