Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

水彩画教室で南京を描く ワールドカップ戦アルゼンチン優勝 ムバッペのシュート デジタル庁?

 19日(月)午後から「おとなの小学校」で「水彩画を描く」の教室にでかけた。参加者4名。今日は南京を描いた。Wet in Wetのやり方で色を塗った。黄色を塗ったあと、まだ乾いていない間に緑の色を落とすように塗るとその水滴が下の黄色の上に広がっていく。不思議な色が画用紙の上にでてくる。マジックのようだ。まだ陰影はうまく描けない。立体物を描くには大事なことだが。

 アルゼンチンとフランスの決勝戦を夜中の12時から3時までみた。前半戦でアルゼンチンが2点とり、後半戦始まった直後にフランスが2点とった。すごかった。延長戦でアルゼンチンが1点とると、フランスも負けずに1点とった。アルゼンチンのメッシーと、フランスのエンバペがそれぞれ1点づつとり、PK戦となった。結果はアルゼンチンの36年ぶりの優勝。フランスはPK戦で2点を失った。これはもう運としかいいようのない勝敗の決め方だ。今回のワールドカップでは、何回もPK戦を見てきたが、運としかいいようがない。フランス側の応援団にフランスの大統領エマニエル・マクロンの姿が何回も写っていた。試合前には大統領が選手たちを激励する姿がネットででていた。最近はフランス贔屓になっているので、大統領までカッコよくみえる。極右翼のル・ペン氏から大統領戦でなんとか逃げ切ったが、ウクライナ問題、燃料問題、物価高騰、コロナ、移民の問題、いろいろ抱えながらも、真摯に向き合っている姿がいい。エンバペのゴールを決めた姿は格好良かった。

 それにしてもフランスのサッカーチームを支えているのが、アフリカ出身の選手が多いことには驚かない。フランスは植民地支配の時代から、イギリスとは違って、同化政策をとってきた。アフリカのフランス領の国々の国民にフランス国籍を与えて、間接支配をしてきた。エンバペは、父親がカメルーン出身で、母親はアルジェリア出身のフランス人。ファミリーネームは、父親の姓だが、フランスで育った彼はフランス語で読むのが普通だと思うので、名前は「ムバッペ」に近いと思う。なぜか日本では、M や Nが名前の冒頭にくると、「エム」とか「エン」とか呼びたがる。本人がどう呼んでいるかを尊重しないといけないと思うのだが、私のアフリカ人友人の中には、「めんどくさいので、どうでもいい」という人もいる。だが、日本では、アフリカ人に限っては、日本人がかってに表記しているように思う。一度、南アフリカの作家を私が間違って表記したことがある。彼女の出身言語を正しく学んだあと、本人にも確認して、訂正した。だが、最初に出てしまった呼び名が定着して、私の間違いを指摘されたことがあった。私は丁寧に説明をして、新しい表記に変えたことがある。最初に紹介する人が、どれだけその人の名前の発音を忠実に表記するかが問われている。「エンバペ」も気になる名前の一つ。日本のジャーナリストたちは、名前の最初にMとあるのだから、「エム」と呼べばいいというのは、あまりにも幼稚な話だ。中国人の名前は漢字を日本語読みしているが、正しくは中国読みを尊重すべきだが、なかなかそこに至らないのはなぜだろうか。「ショピンとは、俺のことかとショパンいい」

 日本のあちこちで大雪が降り、交通渋滞が起こっている。日曜日には新幹線の電線に異常が起こり、東京ー大阪間で何時間も電車がストップして、大混乱が起こった。電気に依存する日本社会は、電気送電に不具合が起こるとすぐに社会が大混乱する。デジタル化社会だけに、大雪地域や新幹線エリアだけではなく、日本社会全体にまで混乱が普及していく。他人ごとではない。先日もテレビ番組では河野太郎デジタル大臣が民間放送の特番に登場して、いかにデジタル庁がこれまでの既成概念をすてて、独自の働き方を紹介していた。壁の色は白ではなくカラフル、机の上には山積みの書類はなし。コンピュータのみ。自由な机の配置。などなど。デジタル庁では、主にデジタル技術者が2〜3日働いで、あとの2〜3日は自身が勤務する会社で働くという、異例な働き方が紹介。なんのことはない、独自のデジタル庁職員が責任をもって全チームとして働く形態をとらないで、他所の会社の技術者を借りて成立している庁だと思った。無責任な省庁。まず電気障害が起こったら、ストップするようなシステムではいけない。そこをどうするのか。それが示されない限り、マイナンバーカード化も机上の空論になる。突然大災害が起こり、マイナンバーカードがなければ、病院での手当ても受けられない、何も購入できないとなるかもしれない。

 イーロン・マスク氏はツイッターのCOEを辞任すべきかどうかツイッターで問うたという。辞任すべきが過半数を超えたという。マスク氏は自らの姿勢を自らで決められない、決めないというずるいやり方には怒りを覚える。自分ではどうすべきかが決まっているのに、「誰かに決められた」とでもいいたいのだろうか。無責任きわまりない。