Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

10月7日 お花が届く、ノーベル文学賞はAbdulrazak Gurnarに

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7日(木)午後から、月ぎめで共同購入をしているお花をいただきに、「おとなの小学校」にでかけた。バラ赤3本、白3本、ドラセナ。ドラセナは幸福の木とも呼ばれ、熱帯アフリカや熱帯アジアで見られる観葉植物だそうだ。ドラセナとバラは合うのかと思ったが、これまでにない取り合わせを楽しむことができた。Facebookにのせると、面白い取り合わせを楽しんでくれたようだ。

 夜の8時にノーベル文学賞の発表がある。ここ10年もの年中行事だが、イギリスの「賭け屋」の予想では一位と二位をケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴと日本の村上春樹が争っているが、この10年は彼ら二人には一度もノーベル文学賞が与えられることはない。8時前にコンピュータの画面をスウェーデンのノーベル委員会の発表会場に変えて、発表を待ち構える。スウェーデン語で発表されるが、すこしづつ英語に翻訳される。固有名詞は聞き取れる。タンザニアザンジバル島出身で17歳の時にイギリスに亡命したAbdulrazak Gurnar氏が2021年のノーベル文学賞を受賞した。今年もグギも春樹も逃した。アフリカ大陸からなら、グギ以外考えられなかった。 

 8時過ぎに電話が鳴り始めた。NHKもどのメディアもマークしていなかた作家だけに、大慌てで、この作家の研究者や、知り合いがいないか尋ねてきた。私の夫も知らない作家だった。私もアフリカ文学に関わってきて40年近くなるが、私のサークルにはいなかった。よく参加したロンドンで開催される作家会議や文化行事でも一度も出会ったことがなかった。私が関わってきた、ロンドンの文化者サークルにも、アメリカに拠点をおく、African Literature Associationでも彼の名前を聞いたことがなかった。私はこのAfrican Literature Associationには、1992年以降から関わり、2度の8年間幹事を努めたことがあるが、Abdulrazak  Gurnarを知らない。タンザニアがニエレレ大統領のもと、革命がおこり、社会主義化した。ザンジバル島でも革命が起こった。この時に多くのアラブの人たちが海外に亡命していった。Abudulrazak Gurnarはその一人であった。私はザンジバルに一度行ったことがある。人々の生活は大変そうだが、アラブの町がいたるところに残っていて、文化の重みを感じたが、詳しくは知らない。アラブ系の人たちは、アフリカ人による革命によりこれまでの生活がひっくり返ってしまった。祖国を追われた人たちには、悔しさや辛さや、憤りなど複雑な気持ちがあったことは容易に想像はつく。そういう中からAbdulrazak Gurnarはイギリスで教育を受け、大学で教えながら、作品を書いてきたのだろううう。

 Abdulrazak Gurnarは、カズオ・イシグロと同じく、イギリスで教育を受け、英語で作品を書き、コスモポリタンとして生きてきた。そうした経験から生み出された作品が評価されたのだろう。だが、アフリカ文学の立場からいえば、どうしてもグギ・ワ・ジオンゴノーベル文学賞をとってほしい。年中行事をはやく終わらせたい。