Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

安倍総理の嘘か誠か

  1月6日の日曜討論で、辺野古土砂投入について、安倍総理は「サンゴ移している」と発言し、「絶滅危惧種が砂浜に存在していたが、これは砂をさらってしっかり別の場所に移していく」と断言した。しかし、実際にはそのようなことは行われていないばかりか、嘘デタラメを平気で発言する総理を許していいのだろうか。「モリカケ」問題の時のように、嘘を平気で通し、公式文書までも改ざんさせてしまう。メディアもグルになって、「嘘を真」にしてしまうムード作りに「キナ臭さ」を感じる。

 

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 いつも「沖縄の皆さんの気持ちに寄り添っていくことも大切」と言いながら、全く沖縄の人たちの意思を無視して、新たに辺野古アメリカの軍事基地を強引に作っていくのは、なぜだろうか。先にもトランプ大統領との会談で、武器の大量購入を約束した。国会で議論もせず、国民の意思を無視して、安倍総理の国家の私物化を許してはいけないと強く思う。

 新年のお祝いムードもようやく終わり、社会が動き出した途端に、行く手は暗雲に包まれている。

 

月命日のお参り

 年末に下鴨の自宅から、上賀茂のマンションに仏壇を移した。夫の父親が亡くなっておよそ30年近くになる。それ以来京都のお寺さんにお世話になっている。月命日、祥月命日を欠かせず、お参りしていただいてきた。義母が10年ほど前に亡くなってからも、それは変わらなかった。浄土真宗では、人が亡くなると阿弥陀如来によりその人はすぐに仏様になり、極楽浄土で過ごしているといるという考え方。仏飯だけのお供えで、お水もお茶も必要としないそうだ。今日のお坊さんのお話はとてもホッとした。お水やお茶は、俗世にいる私たちに必要であって、仏さんには、いらないと言う。私の親の方は、真言宗なので、お茶もお水も物販もお供えする。そしてお盆には、仏さんが家の仏壇に帰ってくるので、毎日、私たちが食べているような食事を用意してお供えする。宗派によっては大きな違いがあるが、それぞれのしきたりや伝統を守って行くのだろうが、要は形ではなく、気持ちの問題なのかもしれない。

おせち料理を小さく切り刻んで、ちらし寿司にした。錦糸卵を作っただけで、しいたけと三度豆は細く刻み、ちらし寿司の上にのせた。人参、レンコン、筍、ゴボウ、かまぼこ等をお寿司の具にした。

 

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 大根と高野豆腐とを炊いた。高野豆腐もお節に入れてあったもの。高野豆腐の中には鳥のミンチ肉と玉ねぎのみじん切りを混ぜ合わせたものを詰めて、炊いてある。大根にいいお味が染み込んで美味しかった。

 

 Facebookは便利な情報ツールだと思う。日本だけでなく、南アフリカやイギリス、アメリカ、オランダなどにいる友人たちの日々の生活や情報が得られる。昨年の1月3日に79歳で無くなったウィリー・コティティーレのことを同じく南アフリカの作家ゼイクス・ムダが思い出させてくれた。彼が亡くなった時にはとてもショックを受けた。彼とは1991年に南アフリカヨハネスブルグで初めて出会った。南アフリカから亡命して、アメリカの大学で教鞭をとりながら、アパルトヘイト反対する意志を詩やエッセイに表現してきた。そして1992年に私たちが主催した「アジア・アフリカ人作家会議」にアメリカから参加してくれた。1994年の南アフリカ民主化の時代には、亡命に終止符を打ち、政府の教育・文化部で仕事をしていたので、私が南アフリカ滞在時には様々な催しで出会っていた。彼が亡くなる前年にもヨハネスブルグで再会し、たわいのない話をした。

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 写真は左がゼイクス、右がウィリー     ウィリーと私


 ゼイクスも同じく、長年南アフリカから亡命して、外国で小説や戯曲を発表してきた。一時期南アフリカに帰国し、ウィットウォータズランド大学で教鞭をとっていたが、今はアメリカのオハイオ大学で教えている。

 ゼイクスにとってウィリーは、信頼しあえる同胞であり、同業者であり、仲間であり、「兄弟」であった。自由に活動ができるようになってあまり時間が経たないのに、ウィリーが早死にしたことは、とてもショックだったし、いつまでも彼の心の中で生きているのだろう。

 私の周りでも知人や友人や親族が亡くなっていく。そのたびに、立ち止まって私自身の行き方を考えさせられる。

 

1月3日 北野神社で書き初め

1月3日、娘家族と北野神社に恒例の書き初めにいく。私は「挑戦」と書く。何事に対しても挑戦が求めらる。諦めたり、無関心になってはいけないと決意。

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四条界隈をぶらぶらする。いつもながら観光客が多いが、何となくみんなの顔は晴れやかに見える。

 おせち料理にも飽きてきたので、色々と加工してみる。ランチに、ミートソースのスパゲティとピザと野菜のサラダを作る。パン焼き器でピザ生地を作っておいて、ほうれん草、チーズ、トマト、ベーコンなどをのせてオーブンで焼く。とても美味しくできた。

 おせち料理をうまく使って、巻き寿司を作る。人参、たけのこ、椎茸、ゴボウなどを長細く切り、鳴戸巻きや湯がいた三つ葉をたっぷり入れた。色どりも良いし、味もよし。下準備がいらないので、簡単。

 お正月のテレビ番組はお笑い、バラエティ、スポーツばかりで社会で何が起こっているのかちっとも伝わってこない。3日の夕方6時過ぎの熊本地震には驚き、熊本に住む友人の無事を祈る。

 

2019年1月1日

 例年は1月1日、真夜中に下鴨神社に初詣をしていた。大晦日の夜N H Kの紅白歌番組を見た後、寒さの中初詣をしていたが、最近では下鴨の家にいないので、真夜中の初詣はない。1月1日の朝におせち料理白味噌の雑煮を食べて、ゆっくりと年賀状を楽しむ。年々年賀状は減ってきたとはいえ、一年に一度だけのお便りは嬉しい。何十年も会っていないのに、学生時代の思い出に引き戻してくれたり、いつも出会っているが、改まった気持ちで年頭の誓いを知る。お互いの無事を喜びあうのも悪くはないと思う。

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 今年は娘家族が1月1日にやってきた。下鴨神社にお参りに行き、初詣をした。いいお天気だったので、晴れ晴れとした気分になった。おせち料理とローストビーフなどのオードブルで一年の始まりをお祝いした。二人の孫は、高校3年生と高校1年生。どんな将来の夢を持っているのかわからないが、努力と挑戦を求められる時代なので、しっかり考えてほしい。食後、上賀茂神社に参拝に行く。お正月だけ本殿の中に入れるので、気分があらたまる。

  少しの時間の合間に、椅子の座布団を作った。なかなか捨て切れなかったスカートを潰して、カバーにした。中にはバスタオルを折りたたんで入れた。暮れに作った座布団カバーは友人のアイディアを真似て、毛糸のベストを使った。

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2018年が終わる

 例年のことだが、12月31日は恒例のおせち料理を作り、最後に台所の掃除をして一年が終わる。おせち料理は50年近く作り続けているので、それほど大変でもない。レンコン、ニンジンは丁寧に桜の形や花形に包丁で切り込みを入れる。見た目に美しいことも大事だ。お正月は食べるものが決まっているので、それを作っておけばいい。最近凝っている焼き豚とローストビーフも作りおきした。チキンの野菜巻き、伊達巻も作った。一番の好評なたたきゴボウを作り忘れていたので、夕食後に作る。たっぷりに炒りごまをすり下ろし、味噌とお砂糖、酢とゆずを入れてよく混ぜ合わせる。

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娘から蘭のお花をもらった。ありがとう。12月30日の早朝、友人の車で大原の朝市に行った。前日に雪が降ったので、大原への山道が凍っていないか心配だったが、友人はスピードを落としてゆっくり運転してくれた。年末の買い物はほぼ済ませていたので、大原では千両と水仙のお花を買った。帰路は八瀬の方に回って帰った。バス道なので、車の量も多く、雪は溶けていたが、周りの木々にはまだたくさんの雪が残っていた。

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 2019年はどういう年になるのだろうか。




 

お墓まいり

 12月27日。お墓まいり。一年の終わりには、必ずお墓詣りをしている。お墓は尼崎の町の中にあるので、公共交通機関で簡単に移動できるのはありがたい。春と秋のお彼岸と盆と年末には必ずお墓まいりをしている。夫の両親が生まれ育った土地なので、夫にはお墓まいりも大層なことではなく、それなりの愛着があるようだ。

 私の両親の墓は高知市にあるのでそう簡単には行けない。最近では高野山にお参りに行くことにしている。それはそれで厳かな気分になる。

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   朝晩の温暖の差が強いので、毎朝窓にできる結露を取るのが大変。 結露取りワイパーで取るが、すぐに水を受ける筒がいっぱいになる。こうした道具も多種多様に販売されていて、掃除が手軽になった。

 長年、ブログを書いていて、文字の間に写真を入れる方法がわからなかった。ようやくネットで検索してみて、やり方がわかったので、早速使ってみた。うまくいった。何でも疑問に思ったことは挑戦して解決すべしと思った。

 今ほど簡単に写真や文字を埋め込むことができなかった時代には、htmlのプロトコールを書き入れて一つ一つ指示していた。それが面白くて、色々と頭に描きながら、文字列を書いていたことを思えば、今では簡単にhtml編集ができることをすっかり忘れていた。

 

大掃除の毎日

 大掃除がしばらく続いている。一番びっくりしているのは、よくもこんなに物を溜め込んできたことだ。少なくともここ10年は着たことがない服、靴などは思い切って処分した。もしかすれば、まだ着れるかもしれないという考えは捨てた。断捨離は、Wikipediaによると、「断:入ってくるいらない物を断つ。捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。離:物への執着から離れる。」「身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である」ならば、まさに今私がしなければならないことだ。一年以上も前に、母が残していったものを整理しながら、強く思った。本人しかわからない物に対する気持ちは、後には伝わらない。悲しいことだが。それならば、私自身のものは私の手で処分しなければならない。

 問題は、書籍類。3年前に退職する時には、不要な本は必要とする人に譲った。ブックオフにも持ち込んだ。何千円もの本が10円の値段がついた時には、悲しい気分になった。誰も使いそうにない本は古紙回収で出した。そして私に必要な研究書は自宅に持ち帰ったが、それらが大きなスペースを占領している。今回の断捨離で、私の関心が最も深い南アフリカ関係の書籍とアフリカ文学関係のものだけを残し、あとは思い切った処分することにした。一つの方法は、若い研究者に使ってもらえそうなものを了解を得て、送付することにした。もう一つの方法は、京大のすぐそばにある吉岡書店に売りに行くことにした。フランス語教室でご一緒している方がいつもそうしていると話していたことを思い出したからだ。これまで2回ほど行ったが、値段がつかない本のほうが多いが、それでも若い人たちに読んで貰えるかもしれないという淡い希望がわいた。

 最後の方法は、古紙回収に出す。私にとってはとても大事なものだが、誰も利用しそうにもない資料集のようなものだ。ロンドンの片隅にある小さな本屋さんで、長時間座り込んで見つけた雑誌類や、アパルトヘイト時代に発禁処分にあい、なかなか手に入らなかった本やパンフレットなどが私の手元にある。こうしたものは私には意味があっても、他の人にとっては何の価値もない。処分することに。

 

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書棚を整理