Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

8月24日 コロナ感染症はピークを去ったのか

 朝からテレビ報道では、コロナ感染症の第二波をまだみとめない専門家委員がいたり、流行のピークは終わったと言ったりする。なぜなのか。まだまだ流行は衰えていないように思えるし、世田谷区長の保坂展人さんが、できるだけ多くの人に「いつでも、どこでも」PCR検査をするという方針に対して、意味がない、必要がないという論調を展開する人たちが出てきている。なぜなのか。

 いろいろと議論を聞いていると、コロナ感染症に対して、それぞれの人の立場や利益が見え隠れしていることがわかる。どんな新型の感染症に対しても人類の叡智で克服する努力が必要だ。これだけ世界がグローバル化した結果、一つの感染症が世界的規模で拡散することがわかった。それに対する闘いは世界が協力してストップさせなければ、終わらない。表面的な数字だけで、ああだこうだと議論しても始まらない。

 最近の疑問は、なぜ大学はキャンバスで開講しないのかということだ。少なくとも、新入生に対して、全員を一堂に集めるのではなくても、何回かにわけて学生どおしが顔を合わせて、「この大学で学んでいるのだ」という感覚、意識を持たせるべきではないのか。オンラインでの授業もいい。学生と教師が繋がれるというメリットはあるかもしれないが、コンピュータの枠を通してのコミュニケーションはあくまでもヴァーチュアルで、実体験として残らないような気がする。大学側はどのような論理でキャンパスを開放しないのか。なぜ門を閉ざしたままでいるのだろうか。

 大学の使命の一つが学問、知識の習得とその展開・発展だとするならば、「なになに大学入学」は不要になる。それぞれの大学の特徴に期待して入学した学生たちは、自宅でコンピュータに向かっているだけだとすれば、その大学に席をおく理由は見つからないのは当然だ。先日テレビのニュースで、立命館大学に入学した学生の4分の1が休学、1割の学生が大学を退学しようと考えているという。非常に心が痛んだ。

 私の孫は大学2年生。自宅でリモート授業を受けている。4月からは大学には行っていない。期待していた海外研修もこれから先ずっと見込めない。若い人たちはこのコロナ禍から大きな損失を被っている。どんな期待や希望が彼らに与えられるのだろうか。

 仲間入りしたバラたちはそれぞれの場所で咲いている。周りに元気を与えている。古くからいる赤いバラは三番花を次々と咲かせている。

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