Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

大原の朝市 ケープタウンの友人 コーレ・オモトショ亡くなる

23日(日)大原の朝市にでかけた。お花はセリ科のお花とトルコキキョウ、ユリを購入。セリ科のお花はアンジェリカというらしいが、私は初めてみる。どう生けていいかわからなかったが、水盤にいれたみた。涼しげなお花で、夏の暑さを吹き飛ばしてくれそう。ユリは年中あるが、元気を与えてくれる。

     

最近は、ポタージュスープに凝っている。この暑さなので、茹でた野菜をミキサーにかけて、スープストックと牛乳を入れて仕上げる。カボチャスープやコーンスープなどにして、冷蔵庫で冷やす。とても喉越しがよく、食欲がすすむ。柔らかいものが欲しくなる年齢になったのかも。

 ケープタウンの友人からWhatsAppにメッセージがきた。9月に彼女を訪ねていく予定にしていて、それがどうなったのかを聞いてきた。飛行機のチケットを予約したこと、旅程表を送ると、「パーフェクト」と帰ってきた。ケープタウンはちょうど春で、花が一斉に咲く時期となるので、「花と鳥」を楽しみましょうと返事が返ってきた。南アフリカの北部や東部へ、二人でよく旅行にでた。私がスケッチブックを持ち、野に咲く花を写生した。彼女は望遠鏡を持っていき、鳥を観察していた。彼女は京都に二度来たことがある。30年来の友人。彼女の生き方からたくさん学んできた。

 ナイジェリア出身のコーレ・オモトショが7月19日にヨハネスブルグでなくなった。80歳だった。作家でもあり、研究者でもあった。1991年3月にロンドンで開催された「ラディカル・ブラックおよび第三世界の国際ブックフェア」で出会ったのが最初だったと思う。1991年12月にヨハネスブルグで開催された「ニューネーション作家会議」で再会した。その後私は、1994年にウェスタン・ケープ大学英文科で研究する機会が与えられた。その時にコーレは同大学の英文科で教鞭をとっていた。ケープタウンの友人ともコーレの家に招待されたり、夕食に招待したりで、プライベートでも親しくしていたが、アフリカ文学へのアプローチが少し私とは違っていた。私は当時は南アフリカの女性作家に興味があり、ナイジェリア文学には関心がなかったのが一番大きな溝だったかもしれない。だけどもコーレの妻さんは、バルバドス出身で、とてもやさしい人で、洋裁が得意でいつも自分で作った素敵な服を着ていた。趣味が同じだったことも親近感を持っていた。2002年の「持続可能な開発に関する世界会議」でヨハネスブルグで出会ったのが最後だったが、その後しばらくして亡くなられた。デズモンド・ツツ財団で仕事をしていて、開発教育に関わっておられた。息子さんは俳優として活躍し、娘さんは作家となり注目を浴びている。コーレは南アフリカの新聞にコラムニストとして文芸評論を書いていたが、南アフリカの携帯電話ヴォーデコムのコマーシャルに出ていて、一時期とても有名だった。南アフリカのあちこちの大きな広告塔に彼の笑顔があった。コーレの晩年は病気との格闘だったという。誰もが歳をとり、病気に襲われる。寿命は誰にもわからないが、周りの友人や知人が亡くなっていく。とても寂しくなる。