Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

お誕生日 気分転換に 初雪 ホームページ改造計画 自民党の派閥解消は?

24日(水)お誕生日だった。年末から年始に変わる時以上に、一年が過ぎたことを実感した。LineやFacebookやWhatsAppに誕生日メッセージが届いた。遠く離れた友や、家族からの一言は嬉しい。楽しい時間をたくさん作ろうと思った。

 京都も一日中、冷たい空気が流れていた。途中で読書会を退会したので、まだ読み終わっていないフランス語小説『なぜ空は青いのか』を読む。全370頁のうち、あと100頁ほど残っているが、なんとか最後まで読み切りたい。気がつくと、一日中机の前に座っていた。机の上のカバーを変え居心地を良くしたからかもしれない。カバーにしたのは、織の絣の着物地。布が大好きで、あちこち出かけるとよく布を買う。世界中共通して、布作りは女性の細やかな手仕事からうまれているので、1センチの布も疎かにしてはいけないと思っている。

25日(木)朝、目をさますと、一面真っ白の雪の原。朝のニュースは東北、北陸、関西の雪状況。震災のあった能登地方では雪が深く倒壊した家々をすっぽりと覆っていた。残酷な追い討ちだと思った。

 アフリカ文学研究会のホームページは、Kyoto-inetのサーバーの中にある。私のネットワーク環境内にあり、容量が大きいために年間かなりの金額を支払って維持してきたが、今後どうするかは何も決めていない。とりあえずは小さなサイズに縮小して、いつでもどこにでも移せるようにしておこうと思った。最初に作ったホームページは、かれこれ30年ほど前のもので、最近に更新したのはかなり荒っぽいものだ。会報を電子発行にし、原稿枚数の制限をしなかったので、若い人たちは熱の入った長文の論文を寄稿してきた。そのたびに容量をオーバーしたが、なんとか会誌発行を継続してきた。新しいホームページを作るには、こまかな作業が要求されるが、ちょっと挑戦してみようと思った。

 午後から卵と牛乳を買いに出た。800メートルほど河原を歩き、西賀茂車庫から一駅バスに乗ってスーパーまで。卵と牛乳を買う予定が、おでんの材料やお魚、野菜などをついつい購入してしまった。買いだめておくと、2、3日は安心できる。コロナ禍の教訓と習性となった。

 自民党が組織ぐるみで「裏金」作りをしてきた。にもかかわらず、「安倍派」の数名の幹部たちにすべての責任を負わせて、自民党生き残り策を練っているように思われる。「裏金」は会計責任者に責任を負わせ、何に使用したのか、なぜ「裏金」が必要だったのかを、明らかにしない。自民党は数年前に河井案里氏を参議院議員にするために、1億5千万円も提供した。使徒不明でよしとされ、国会議員になったが、選挙違反で当選無効となった。いまだに1億5000万円の出所も使途も明らかにされていない。自民党と旧統一教会との関わりもあいまいなままだ。安倍派の幹部は立件されずに、会計責任者だけが有罪となる。野党も国民も納得がいかないので、岸田首相はあわてて、自民党内で派閥を解消しようとしたが、全派閥が一致したわけではない。そこで派閥を「政策集団」と名称を変える奇策に打って出た。根本的な改革をやる気があるのだろうか。

ブログ再開 侘助椿 アップルケーキ 志賀発電所は大丈夫?

長いことお休みしていましたが、再開します。この間、お天気は、ポカポカ陽気だったり、寒くなったり。ベランダのバラたちは、休眠を忘れて、あちこちから芽が吹き出し、新しい葉っぱがでてきた。侘助椿は花が咲き始めた。昨年も同じ時期に咲いていた。左の写真は今年にとったもの。右の写真は昨年の同じ日にとったもの。背丈を伸ばさないように、剪定したが、それでも背が伸び、力強く成長している。

                 

 1年前と同じ日にアップルケーキを作っている。何と不思議なことだろう。体内カレンダーが覚えているのだろうか。左が今年のもの。右が昨年に作ったもの。りんごをどう切るかによって変わるが、見た目が美味しい方がいいに決まっている。

    

 能登半島で被災された方々のニュースを見るたびに、心が痛む。この間29年前に起こった淡路阪神大震災を経験した高校時代の友人たちとラインで語りあった。私たちの高校も被害を受けた。私自身は実体験がなかったので、友人たちの声をしっかりと受け止めた。ひどかった被災地を足で歩いてみて、町の変わりようを写真でラインに載せた友人もいる。神戸を離れた友人たちも、ともに過ごした高校周辺の被災地を思った。

 能登半島の大地震で、観光客が減っているので、観光地を支援するために、北陸応援割を出すことを政府が発表した。金沢の観光支援策だという。コロナの時もそうだったが、旅行にいける人たちは、経済的にも時間的にも余裕のある人たちだ。そういう人たちに支援するのではなく、被災している人たちをもっと応援する策をなぜ考えないのか。自分たちの裏金作りがバレると、なんとか言い逃れる策を練りつづける。派閥に責任をなすりつけ、派閥を解消すれば、「裏金」問題が「解決」すると思っているなら、国民を馬鹿にしている。

 また、今回の地震で志賀発電所で何が起こったのか、国民に何の説明もない。北陸電力は発表の度に訂正を行い、事実を隠している。原子力発電所で実際に何が起こり、どうなっているのかが明らかではない。不安が広がるばかりだ。なぜ政府も追跡しないのか。不信感しかない。 

毛糸のセーター 袋の再生 筋トレジム・カーブス 地震 戦争とは?

 青い糸で編んでいたカーディガンができあがった。私用ではなかったので、届けにいく。糸は昨年に買ったもので、春がすぎ、夏がきて、秋になってからようやく編み始めた。最初頭の中にあった模様は途中でわけが分からなくなり、全部解いて、一からやり直した。いつもの編み慣れている模様ではじめた。スイスイと進んでいった。前だてをどうしたいか、要望をきいて、初めての挑戦をした。洋裁の型紙が頭のなかにあるので、それをなんとなくイメージしながら、少しづつ網目を増やしたり、減らしたりした。毛糸編みはゆうずがきくので、楽しい。余った毛糸で帽子の要望がきた。

 二度ほど作り直したバッグが持ちにくくなった。背が低くなったのと、重たい物をそれほど背負いきれないので、もう少しサイズを縮めようと思った。縦長だった部分を5センチ、折り返した。そこにファスナーをつけて、蓋をした。必要に応じてバックにもなるように、背負い紐はそのままにしておいた。背中についているのは、もともとは斜めがけの袋だったが、それを普通のバックにつけて、むりやり背負えるバックにしていた。新しく生まれ変わったのは、身体に見合った小さめの袋になった。

10日(水)久しぶりに筋トレジム・カーブスに行った。筋肉を鍛えることが大事だと身体が感じ取っていた。寒さで、部屋の中でじっとしていたので、急速に筋肉が衰えていた。筋トレを始めて、もう6年も経っていた。久しぶりに計測してもらった。体脂肪率はとてもいいとのこと。「継続は力なり」

 能登半島地震は、発生から10日もたった。低体温症について報道されていた。体内の温度が35度以下となり、筋肉の硬直、呼吸の減少、身体の震えが起こる。屋内でも起こるので注意を喚起していた。夏の熱中症とは逆の症状で、生命とりになるという。被災地で低体温症で亡くなっている方もいるそうだ。暖房用の灯油や暖房器具が足りないとの報道があるが、早く最低でも使い捨てカイロを配ればいいのだが。避難場でコロナが発生しているという。10日も経っているのに、孤立している地区もあるという。地域住民が支え合っている様子に救われるが、一刻も早く支援の手をさしのべてほしい。                                                                                                                                              

 「報道1930」は、ウクライナ情勢について討論していた。ロシアでは、プーチン大統領は、3月の大統領選に向けて「停戦」の意向を国民向けに演説しているという。ウクライナに続いて、エストニアはロシアが攻めてくることを恐れて、それに備えているという。アメリカの大統領選挙がウクライナ情勢を左右するとまで語られていた。アメリカもイスラエルとの関係から、ウクライナ支援をストップせざるをえない状況であるという。戦争は何のために、誰のためにやっているのかを問うていた。

ピザをつくる 能登半島震災支援

7日(日)少し空気は冷たいが、穏やかな朝だった。一日中予定がない、まったくの休日。のんびりと過ごした。朝の散歩のつもりで、卵と牛乳を買いに出た。ついでに、ピーマンやしめじ、果物など、あれこれ買ってしまったので、帰路はバスに乗った。お昼ごはんに、ピザを作った。パン焼き器でピザ生地を作ったので、めんどうな生地つくりは省略。あとは、玉ねぎ、トマト、ピーマン、しめじ、ハム、チーズなどの材料を並べて、190度18分のオーブンで焼くだけ。おいしいピザがとても簡単にできた。

 木原稔防衛大臣は記者会見で、能登半島震災の現地に自衛隊を5900人態勢で対応することを発表した。「最適な数の航空機を投入できている」と述べ、問題はないとの認識を示したとメディア報道があった。そうだろうかと疑問に思うのは私だけではない。熊本震災の時には、最大で26,000人態勢で取り組み、延べで814,000人の隊員が関わったと言われている。この寒い時期だからこそ、迅速に救援するためには、最大級の人的支援が必要だと思う。木原大臣の発言には、誰も納得がいかない。あちこちの避難所や、車中泊を強いられている人たちや、多くの人たちが、さまざまな支援を待っている。政府は、被災地救援に全勢力を投入してこそ、国民の信頼を回復できるのではないか。こんなひどい自民党政権は退陣しかない。

フランス語の授業 シャンソン アウトレットでの買い物 被災地への支援

5日(金)午後からはフランス語の授業がはじまった。年末年始の忙しい時期は、フランス語の勉強から遠ざかっていた。そのためもあって、1月の授業が始まり、気を引き締めて学ぼうと改めて思った。少しお休みをしている方が数人いたが。フランス語の単語がはっきりと聞こえてくることが一番で、そのあとに動詞の活用を考える必要があった。聞き取りでは、3年前に教室でみんなと一緒に歌ったシャンソンが冒頭ででてきた。Michel JonaszのLes vacances au bord de la mer. 甘い声でやさしく、語りかけるように歌うシャンソンをあらためて素敵だと思った。 On allait au bord de la mer     Avec mon père, ma sœur, ma mère     On regardait les autre gens    comme ils dépensaient leur argent......が冒頭の書き取りだった。

 Édith Piaf のシャンソンをまた聴いてみようと思った。Hymne à l'amour, La Vie en rose, Sous le ciel de Paris, Mon Dieu, 等などを。ピアフは47歳で亡くなった。彼女の人生は波乱にとんでいて、激動の時代を歌に支えられながら、生きてきた。2019年1月に兵庫県立芸術文化センターで、大竹しのぶ演じる「ピアフ」を観た。ピアフが乗り移ったかのように演じ、歌う大竹しのぶの迫力はすごかった。ピアフのシャンソンは彼女の人生そのものだったと感じた。

6日(土)娘の家に行き、オープンサンドウィッチを食べたあと、栗東のアウトレットに買い物に出かけた。初売りとあって、大セールをしていた。コロナ禍の4年間は、あてのないショッピングに出かけることもなかった。必要な物を短時間で購入することしかしてこなかった。縛りがとかれて、以前のようにブラブラとショッピングを楽しむ気分になった。大好きなgentenの小さなバッグを買った。自分へのご褒美のような気分になった。若い人は、着るものに一番興味があるようだ。

 車中から見える景色は家が密集していて、山肌を剥ぎ取って住宅地や工場地をつくっていた。能登半島地震で被災した人たちには、物資が届かないとか、水や食料がないとか、報道されている。想像もつかないほどの惨事に遭遇し、多くの人たちは、精神的、肉体的疲労が極限に達していると思う。ある地域の自治体は、お弁当の数が足らなかったので、すべてのお弁当を廃棄して、誰にも配らなかったという。不平等が生じて、文句が出るのを防ぐためだと弁解している。なんと愚かなのだろうか。岸田首相は防災服を着て記者会見に臨んでいたが、その裏では、背広に着替えていくつかの新年パーティにでていたそうだ。被災された人たちをいま応援できるのは、政府や自治体があらゆる手段を使って、早急に行動するよう声を上げるしかない。

能登半島地震 BBCのニュース  椿と山茶花

4日(木)ずっと机の前に座っていた。テレビとコンピュータは机の前に並んでいる。半分はテレビを、半分はコンピュータを見ながら、手は編み物。ときどき、ニュース番組では能登半島地震の状況を伝えていた。想像以上の被害で、時間がたつにつれ、被災した人たちの状況が伝わってくる。水や食料、トイレの問題ばかりが繰り返される。

 ネットのニュースで見たのがきっかけで、イギリスのBBCニュースを読んだ。被災状況を伝えながら、これまでの過去の地震から日本がなにも学んでいないことを指摘していた。1981年に過去の地震から、建築基準法が変更になり、さらに淡路阪神大震災のあとも改定されたと指摘してあった。だが、倒壊した家や建物は、その建築法の基準に満ちていないものが半分あったと指摘していた。テレビの画面に映し出された崩壊住宅や、ビルなどは、新しい建築法の基準に満たない古いものだったようだ。そうしたことが十分に予想されたのに、放置していたのは、行政の問題なのかもしれない。日本のメディアは一切そのことに触れない。

 そしておよそ13年まえに起こった東日本大震災の時の避難場の状況から、現在も同じ状況だ。衝立もない、床の上に布団を並べただけで、トイレも暖房も十分にないままだ。この10年間何の反省も改訂もしてこなかった。莫大な防衛費を支出しているが、国民の生命を守るための防災費用を捻出してこなかった。被災した住民の多くが高齢者であることも身につまされる。

 ネットで誰かが指摘していたが、岸田首相や大臣などは、新調の作業服に着替えて震災に対応している格好だけを見せていると。なんだか、表面をつくろう姿勢がうそっぽくみえる。

 いま私が住んでいるマンションは、淡路阪神大震災のあとに建ったので、新しい建築基準法にのっとったものだが、最近に近隣住宅との境にある塀はブロック塀だったので、それは取っ払われて、地震があっても問題がない塀に変わった。もちろん住民の管理費でまかなわれたが。

 侘助椿が咲き始めた。まだ、山茶花が咲いているのに。

       

 

お正月の行事 能登半島地震など 

 2日(火)例年どおり、家族が集った。全員で6人。一時期、幼い子供から老人まで、19人もが狭い家に集ったことがある。ようやく同じテーブルで食事ができるようになっただけでも、嬉しいことだ。何年かぶりで大皿の出番があった。鶏肉のとりあわせの鍋料理もつくった。結構さっぱりとしていて、暖かい食べ物は胃にやさしい。餅米と白米をまぜて、煮た小豆を入れて、赤飯も炊いた。美味しくできていた。2回目の上賀茂神社もうで。長蛇の列ができていたが、人の流れがスムーズだったので、あっという間に本殿に。昨日買い忘れた御神矢を購入。この一年が無事に過ごせますようにと祈った。

 能登半島地震の被害状況は、時間がたつにつれつぎつぎに明らかになっていく。この間もずっと余震が起こっているという。どんなに恐ろしい思いをしていることか。大規模な火災も手のほどこしようもなく、200件以上の家屋が焼失したという。土砂崩れや家屋の倒壊など、悲惨な状況がテレビ画面に映し出されるたびに、胸が締め付けられる。知り合いが家族で能登の実家に帰省していて、地震にあったが、全員無事だというメッセージをFacebookに書き込んでいた。「よかった」。地震があったときに、一番にその人の顔が浮かんだ。以前お正月には帰省していると言っていたのを思い出した。3万人以上の人たちに影響がでているという。早急のライフライン確保と提供を。

 昨晩は日航機に海上保安庁の航空機が衝突した。日航機に乗っていた、400人近くの人が全員無事だったのは、よかった。だが海保機の機長は無事だったが、ほかの乗組員5人は死亡した。この海保機は能登半島地震の被災地に物資を運搬するためのものだったという。複雑な気持ちになるが、海保機が一般の空港で日常の活動をしていることは知らなかった。

 3日(水)1日の夜から、アメリカ、オランダ、ベルギー、イギリス、南アフリカの友人たちから地震見舞いのメールが届いた。FacebookメッセンジャーやWhatsAppなどは便利で、世界中の人たちとつながっているという感覚を強くいだいた。ありがたいことだ。地震は防ぎようがないし、海外にいる多くの友人たちは地震を体験したことはあまりないので、実感はわかないようだ。日本に来ていた時に、地震にあった友人が何人かいる。どの人もすごく怖がった。私はあまりたいしたことはないと説明しても、信じなかった。だいたい、震度2か3程度だったので、日頃から慣れている私にとっては、「大丈夫」と言いつづけた。地震を体験したことがない人にとっては、震度3でも恐怖だったようだ。私でも震度5以上は経験したことがないので、震度7は恐ろしい。淡路阪神大震災も、東北大震災も震度7だった。その被害の大きさは誰もの記憶にある。

 水道と電気と道路が切断されると、たちまちに生命維持に支障がでてくる。デジタルの電話もつながらない。こうしたことは、戦場でも起こっている。支援物資だけで生命を維持していくのではなく、どんな状況になろうとも、生命維持に欠かせないインフラを新たな方法で構築することを地球規模で考えてほしい。科学技術でできないことはないはずだ。月を開発するのではなく、地球環境を救い、地球規模で人類の生存を守る術を本気で考える時だと思った。

 午前中、北郵便局に年賀状を買いにでかけた。上賀茂神社参拝者や車のために、家の前からのバスは路線変更しているので、バス停2つ分、賀茂川の河原を歩いて下り、バスに乗った。数人が私と同じように年賀状を買いに来ていた。一年に一度だけでも無事に暮らしていることを伝え合う人たちがいる。