Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

11月2日 ラグビーワールドカップ、南アフリカ優勝。

 ラグビーのワールドカップが日本で開催されていた。日本は南アフリカに負けたが、ベスト8に残れた。相手の南アフリカが優勝した。ラグビーのルールはよくわからないが、見ていても力が入る。サッカーとは違った別の面白さがあった。日本で開催されたということもあり、かなりのゲームを見た。

 何よりも、南アフリカが世界一位のイングランドを破って、3度目の優勝を果たした。1995年に南アフリカで開催されたワールドカップで初優勝を飾った。それまでは南アフリカアパルトヘイト政策を取っていたために、スポーツの国際試合の参加には出場できなかった。マンデラはスタジアムで観戦し、ラグビーのワールドカップ優勝が人種融和の道を拓くものとして期待する素晴らしいスピーチをした。これまで南アフリカではラグビーは白人のためのスポーツ、サッカーはアフリカ人のためのものとされてきた。だが、95年のラグビーチームに、アフリカ人も入っていたが、人種の壁を超えるのは難しかった。様々な葛藤をへて、人種融合の道への先陣を切ることを期待した。その通りに、今では、アフリカ人のシア・コリシはキャプテンを務めた。史上初のことだった。2007年にも2度目の優勝を果たした。この時の大統領はターボ・ムベキ。彼は南アフリカから亡命して、海外で反アパルトヘイトの運動を担った人だった。父親はマンデラと一緒に闘ってきた。そして今回3度目の優勝は、シリル・ラマポーサ大統領の時になる。ラマポーサはアパルトヘイト時代には、南アフリカ最大の鉱山労働者の組合の委員長として、またその後の南アフリカ労働組合連合の書記長に選ばれ、闘ってきた。マンデラ政権下ではビジネス界に進出し、南アフリカの経済の発展を支えてきた。

 マンデラは彼に大きな期待をよせ、早くからマンデラの後継者として認めていた。私は1991年にラマポーサに会っている。南アフリカ作家会議が主催する文学者会議で同席した。素晴らしく説得力のある話し方にはオーラを感じた。

 この今の大統領ラマポーサは日本の横浜国際総合競技場にいた。はじめ、テレビの画面で見た時に「あれ!」と思った。やはりマンデラと同様に優勝を予感してか、スタジアムに足を運んでいたのだった。日本のメディアは、南アフリカのことよりは、ヘンリー王子の観戦やイングランドのことを取り上げていた。ヘンリー王子はイングランドラグビー協会の名誉総裁を務めており、日本のラグビー協会名誉総裁の秋篠宮殿下と肩を並べての観戦だった。

 日本ではラマポーサの影は薄かったが、これが南アフリカで開催されていたら、違っただろう。ラマポーサはインタビューに答えて、南アフリカの優勝を「南アフリカが多様性に飛んだ国」であることを証明し、「皆が力を合わせた」と褒め称えた。