Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

10月10日 ノーベル文学賞さわぎ

ノーベル文学賞が、日本時間で夜の8時に発表された。毎年この時期には大騒ぎとなる。イギリスの賭け屋では村上春樹が一位だった。アフリカ人作家で、ケニア出身のグギ・ワ・ジオンゴも候補のリストにあがっている。ソマリア出身で今南アフリカで暮らすヌルディン・ファラ、ガーナの女性作家アマ・アタ・アイドゥらも候補にある。今年はカナダの女性作家アリス・マンローが受賞した。短編小説作家で、女性の日常を扱っており、今年82歳。
 ケニアの作家グギは、ここ何年もノーベル文学賞の候補にあり、受賞が待たれる。グギ自身も少しは意識しているのかもしれない。あちこちでの講演を引き受け、世界中を飛び回っている。最近では勤務先のカルフォルニア大学アーヴァイン校から、2013 Medal Awardを受賞したばかりで、まるでノーベル文学賞を受賞したとき用に作られたようなビデオをみた。1991年度のノーベル文学賞受賞者である南アフリカのナディン・ゴーディマや、ガーナ大学の教授で作家のコフィ・アニドボ、アツクウェイ・オカイらが賛辞を述べている。
 グギは東アフリカで初めて英語で小説を書いた作家だった。ウガンダマケレレ大学で学び、のちにイギリスのリーズ大学に留学した。この留学中に書いた『一粒の麦』(1967)はケニア独立直前を小説の舞台にしているが、ケニア民衆の期待と裏切りがテーマであった。James Ngugiという名前で作家活動をしてきたが、名前をアフリカ式の名前Ngugi wa Thiong'oに変えた。Thiong'oの息子のNgugiになった。
 1977年に彼の民族語であるギクユ語で戯曲『したい時に結婚するわ』を書き、地域の人びととともに上演をした。英語小説『血の花弁』もほぼ同時期に出版。こうした作家活動が、裁判なしの1年間の政治拘禁につながった。彼は拘禁中に、英語で書くのではなく、ギクユ語による演劇活動が政治権力者を脅かすのであれば、英語で作品を書くことをやめる決意をした。実際にトイレットペーパにギクユ語で『十字架の上の悪魔』を書いた。
 釈放後に書いたギクユ語劇『母よ、わがために歌え』は上演許可が下りなかった。ちょうどこの時期に来日した。その後はヨーロッパに講演旅行中にケニアでクーデターが起こり、グギがケニアに帰国すると逮捕されるだということで、22年間亡命生活がつづいた。この間、イギリスやアメリカを転々とした。1992年に私たちアフリカ文学研究会の招きで、「アジア・アフリカ文学者会議」に来日した。さらには2000年にも「アフリカに関する国際シンポジウム:文化と開発」に出席した。アフリカ文学とアフリカ言語の発展のために貢献してきた。
 ギクユ語で創作活動をすることで、投獄、亡命を余儀なくされた。文字通り命をかけて闘ってきた。作品や評論では植民地支配、いまもなお続く新植民地主義グローバリズムのなかで、アフリカが不当に扱われていることへの怒りが、創作の意欲をかき立てた。自らの民族語で作品を書くことが、英語支配に象徴される世界の秩序に対する挑戦であった。アフリカが真に独立し、他の社会と対等になるよう、作品を通して主張しつづけてきた。
先週にロンドンで講演したのも、世界秩序を支配する英語が持つ力とそれに対抗するアフリカの民族語との関係について話した。グギは今年ノーベル文学賞を逃したが、いづれ受賞してほしいと思う。

 久しぶりに朝の散歩も再開した。高野川沿いの草花は変化していた。野紺菊がかわいい。下鴨神社フジバカマが展示されていた。紫式部時代から咲いているフジバカマの原種を京都でここ何年も大事に育てている。

下鴨神社フジバカマ