Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

ネヴィル・アレクサンダーとスティーブ・ビコとのこと (その3)

 9月12日は南アフリカのスティーブ・バントゥ・ビコの拷問死から35年目。当時30歳だった。彼は「黒人意識運動」を指導し、南アフリカの解放運動に大きな影響力をもった。ビコのことは国連でも取り上げられたり、映画「遠い夜明け」等でも詳しく描かれているので、ビコの思想は世界中に知られる。
  当時反アパルトヘイト運動の主流はリベラルな白人とともに、人種協調路線で闘ってきた。そうしたことに若いビコは我慢がならず、「アフリカ人による、アフリカ人のための運動」を展開した。アフリカ人の意識改革がなければ、社会変革はありえないと考えた。ビコのラディカルな思想が南アフリカ社会の根底を揺るがしかねないと判断した南アフリカ政府はビコへの弾圧を強めたのだった。
 ビコは、何百キロも離れた東ケープ州のキング・ウィリアムズ・タウンから、ケープタウンにいるネヴィル・アレクサンダーを訪ねてきた。ネヴィルは頑なにビコの面会を拒否した。落胆してビコが帰っていった。その途中でビコは検問にひっかかり、拘禁されてしまった。そして拷問死をとげたのだった。
 私はネヴィルからこの話を何度か聞いた。ネヴィルは唯一後悔している出来事は、ビコがわざわざ訪ねてきてくれたのに、会わなかったために、ビコの逮捕という事態になったことだと言った。
 ネヴィルは1964年から1974年までの10年間をロベン島で過ごした。その後5年間の自宅拘禁にあっていた。ビコは、ネヴィルのいる場所からドアを隔てて、数メートル離れたところにいた。しかし、「非ヨーロッパ統一戦線」を組織しているネヴィルは解放運動の路線の違いから、ビコに会う必要はないと考えた。ネヴィルはある意味では彼の思想には一歩も譲らない原則に徹していた。ネヴィルがこの時のことを機会あるたびに、後悔していると語っている。なにもビコに会うことは、ビコの運動路線に加担することにはならないし、もっと広い心で受け入れるべきだったと語っていた。しかし、ネヴィルにしても、ビコにしても、自宅拘禁中で、南アフリカ政府から最も恐れられる存在だったことには変わりはなかった。
 余談になるが、ネルソン・マンデラはロベン島でネヴィルと一緒だった。ネヴィルの何にも動じず正面から闘う姿勢と思想にマンデラも感服していた。マンデラが民主南アフリカの初代大統領になったとき、マンデラはネヴィルがANC(アフリカ民族会議)のメンバーでもないが、ネヴィルに教育大臣を引き受けてほしいと要請したらしい。ネヴィルは閣僚に入ると批判ができないので、政権の外側から教育や言語の問題を提案したいと申し出て、断った。実際には南アフリカの新しい憲法の言語に関する項目の原案を起草する委員会の座長をつとめ、多言語多文化社会の基幹を築いた。ビコの主張する「アフリカ人の文化や言語」が生かされた。
 ネヴィルやビコのように、命をかけて闘ってきた人たちが大勢いて、現在の南アフリカがあることを忘れないでいたい。