Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

4月20日 バラの手入れとお習字のおけいこ

「おとなの小学校」にバラの手入れのために出かけた。総勢7名の参加。一輪咲きのアンクルウォルターが、早くも蕾をいっぱいつけていた。つるバラのカクテルは所々咲き始めていた。誘引しなおしたり、枯れた葉っぱを取ったり、うどん粉病にかかっている葉っぱをむしったり、白くカビているのを歯ブラシで擦り取った。とても手間がかかるが、こうして手をかけることで、美しい花が咲く。

 

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 午後2時からお習字がウィングス京都であるので、バラの手入れをしている人たちとは一緒にお茶を飲まないで失礼した。バスに乗り、北大路ターミナルまで行き、地下鉄で烏丸御池まで行った。そこから5分ほど歩いたところにお習字の教室がある。

 「戸封八縣 家給千兵」の後半部を書いた。徳のある臣下に千兵を家給したと言う意味。家という字はなかなか難しく、書きづらい。家の屋根の下には豚がいると言う意味らしい。漢字は面白い。

最近では、コンピュータで文字を「書く」ことが多いので、漢字の書き順を忘れている。フランス語の文章もコンピュータで早く打てるようになった。フランス語独自のキーボードの配列がある。アフファベット使用の国では、共通の文字列があるので、指先をみなくても、タイプは打てるし、目を閉じていても、指が覚えている。フランス語は英語配列とは異なる独自の配列をもつ。aとq、wとzは入れ替わっていたり、mの位置は l の隣にある。覚えてしまえば簡単なことだが、フランス語にはé è ê à ç î â ù ò ô 等があるので、さらに複雑だ。慣れれば指が覚えている。

 だが、漢字はそういうわけにはいかない。形や意味やらが重要。いまではローマ字読みで、英語の配列でタイプ打ちすれば、勝手に漢字に変換してくれるので、漢字を忘れていても、文字が出てくるので楽に文章がかけるようになった。変換には注意が必要だが。

 文字を手で書くとなると、きちっと書けるかどうか、自信はない。習字をしない限りはなかなかきちっと漢字と向き合うことがない。小学校時代に、毎日の宿題で100字帳に漢字の書き取り練習をした。そのお蔭で大半の人は漢字の読み書きができるようになった。いまではそんな練習帳は必要がなくなったかもしれない。すべてコンピュータが処理してくれるからだ。日本語もローマ字表記になってしまう時代がいつかくるかもしれないが。

 お習字の教室のすぐそばに大丸百貨店があるので、そこに立ち寄った。いろんな商品が並び、どれも新しく、ファッショナブルだ。みていると心がウキウキ、ワクワクする。長く居たくないので、地下の食料品売り場に直行した。鮭やカシワや野菜などをすばやく購入して、地下道でつながっている地下鉄に乗って帰宅した。いつもよりは人出は多いような感じだった。

 京都も大阪や兵庫と同じ歩調を合わせて、「緊急事態宣言」を出すかもしれない。ようやく大学生が京都に戻ってきて、学生生活をスタートさせたばかりなのに、またもやオンライン授業になってしまいそうだ。下の孫は大学一年生になったばかりで、昨日から毎日大学に通っており、友だちもできたそうだ。結構下宿生も多いようだ。新しい土地で新しい環境のもと新生活が始まったばかりなのに、孤独にコンピュータと向き合う生活が始まるのかと想像するだけで、気持ちが滅入りそうになる。

 昨日の最大のニュースは、ケープタウンで山火事があったことだ。Facebookを見ていると、知人がケープタウン大学の図書館が焼けている動画を配信していた。びっくりしていると、ケープタウンに住む日本人の知人が次々とメッセージを書いていた。テーブルマウンティンの山火事が強風に煽られて、山肌に立つケープタウン大学の図書館が燃えだした。学生たちがキャンパスから避難する様子も映っていた。テーブルマウンティンの隣にあるデビルズピークも燃え始めたという。ショックだった。

 デビルスピークのそばに住んでいる友人のことが気になり、すぐにメールをした。さっそく返事が返ってきたので、無事だとわかり安心した。だが、メッセージの中には、煙が家に入らないようにするために、窓とドアに目張りをしてしっかりとしめたという。別の友人は避難させられ、少しおさまってから、夜は自宅に帰ることができたとあった。ほっとしたが、ケープタウン大学の図書館はアフリカ関係の貴重な資料がいっぱい入っていて、よく利用した場所だ。それにネヴィル・アレクサンダーさんの貴重な資料が所蔵されているので、それらがどうなったかが心配だ。2006年から2007年に一年間ケープタウン大学に在籍し、ネヴィルさんの共同研究室で仕事をさせてもらった。彼は2012年に75歳で亡くなったが、すべての資料はケープタウン大学の図書館に寄贈された。2014年にそこを訪れた時に資料の多さに感動したのを今でもはっきり覚えている。彼は政治犯として十年間、マンデラと一緒にケープタウン沖のロベン島に投獄された。釈放後も政治活動と研究活動をつづけた。南アフリカの新憲法の言語に関わる条項を起草もした。多民族多言語社会の実現のために活動をした。毎週土曜日の朝にはタウンシップの子供たちのために、「Reading Club」を組織して、読み聞かせの運動を続けてきた。一緒に一年間活動したことは私にとっては貴重な経験だった。他の仲間たちはいまネヴェルの意思をついで、大学などで教鞭をとっている。

 だが今回の山火事でアフリカ関連の書庫が焼失したと報道されているので、ダメかもしれないと、暗い気持ちになっている。だが、ネヴィルが残したものは絶対に忘れない。人びとの記憶の中にのこっているが、、、。