Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

Ama Ata Aidooさん亡くなる

 アマ・アタ・アイドゥさんが5月31日に亡くなった。81歳だった。ガーナーの女性作家。アフリカ人女性作家として、女性の声を積極的に描いてきた。ずいぶん昔にアマ・アタ・アイドゥのことをこう紹介している。「「子供を生んで、育てること」のみに女の価値を見だす伝統的なアフリカ社会が、「子供を生まない」女、「子供が生めない」女に対して残酷なまでにも行なう非難や攻撃のすさまじさを描き、女の唯一の生き方が結婚だけでないことを語ってきた。しかも、植民地時代から女の身体が凌辱されてきたというアフリカの歴史背景をふまえて、この問題を論じたのである。だから、アイドゥの作品からは、女が子供をうむ道具として扱われてきたことに対する激しい怒りが読み取れるが、大変勇気がいることだった。アイドゥの主張は、伝統的な共同体から非難と冷笑を浴びせられたが、主体的に生きようとする女たちからは歓迎された」と。戦い続けた作家だった。

 アフリカ人女性作家の世界を作り出した、ナイジェリアのフロラ・ヌワパ、ナイジェリアのブチ・エメチェタ、南アフリカのベッシー・ヘッド、ミリアム・トラーディ、ガーナのアマ・アタ・アイドゥ、らが亡くなっていく。喪失感が大きい。

 アマ・アタ・アイドゥに初めて出会ったのは、1991年12月12日、南アフリカで開催された作家会議のあと、ジンバブエに立ち寄った時だった。アマは早くから作家活動を始めていたが、ガーナの教育大臣にも任命されたが、ガーナの政治状況から抜け出し、ジンバブエに移り住んでいたときだった。この時には久しぶりに長編小説"Changes"を発表した直後だった。私は帰国後にその作品を読み、アマの痛快な女性像に拍手を送った。私はこう書いている。

 「14年ぶりに長編小説『変化』で始めてラブ・ストーリーを描いた。作家は自分が一度語った言葉に責任を持たなければならない。・・・いいわけをする。「ラブ・ストーリーを書けなかったのは、ガーナにはもっと差し迫った重要な問題があったからだ。そうして、いまこのラブ・ストーリーを書くことは、前言を取り消す実践なのだ。ラブ・ストーリーというのは、幾分か特権をもつ若い女性と登場人物の人生と愛の一断片にすぎない」と。アマは、私に「愛」はきわめて人間的テーマであり、重要問題だと話してくれた。女性にとって、「結婚」とは何かを問うた作品だった。誰もが「変わりたい」と望みながらも。「変わる」ことの難しさを教えてくれる作品だった。

 1995年にケープタウン南アフリカの作家たちと未来社会をどう構築していくかという会議をもった。ひょんな縁から、ボツワナ大学でアフリカ文学を教えるレロバ・モレマ、反アパルトヘイトの活動家で弁護士であり、作家でもあったクリスティン・クンタらとこの会議の準備に6ヶ月費やした。ジンバブエからアマ・アタ・アイドゥを招待した。南アフリカからはマジシ・クネーネ、エスキア・ムパシェーレ、ミリアム・トラーディ、ブレロ・ムザマネらが参加した。レジェンドのような南アフリカの作家たちが一堂に会する歴史的な、意義のある会議になった。(とても悲しいことだが、ここに名前をあげた人たちはあちらの世界に行ってしまった。)この会議の合間を縫って、アマをケープタウンのシーポイントを案内しているときに、海の向こう側に見えるのが、ロベン島だと言うと、アマが泣き出した。「ロベン島は、誰にも見えない遠くの海の中にあると思った。ロベン島に連れて行かれた人たちにも、ケープタウンにいる人たちからも、拷問のようなものだ。それ知らなかった自分の無知を恥じる」と言った。ロベン島はマンデラたちが投獄された「監獄島」だった。だれもが知っているが、ケープタウンの町からこんなにも近くだったとは知らなかったという。アマの人間に対する優しさを知った瞬間だった。

 アマとは、その後も、アフリカ文学会で何度も出会い、その度にお互い元気だったことを喜びあった。2019年にはドイツのバイロイト大学で開催されたアフリカ文学会には、車椅子を使っていたので、すこし体調は悪いのかとは思っていたが。。。それにしても81歳というのは、若すぎるような気がする。