Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

植物園でお散歩

 25日(月)、久しぶりに友人と北山でランチを楽しんだ。食事後、レストランの前にある京都府立植物園に入り、ゆっくりと散歩をした。友人は京都で暮らすようになって、15年にもなるが、植物園に一度も足を運んだことがなかったという。比較的近い場所に住んでいるのに、時間的、精神的余裕がなかったという。

 植物園で出会った人たちの中に、ふじばかまを見るために来た人がいた。2箇所で見られるという。最近新しく、日本の花々を集めている場所にあった。古くからは万葉集にふじばかまが歌われているが、京都では絶滅危惧種に指定され、下鴨神社やあちこちでふじばかまの育成に力を入れている。

 乾燥すると淡い匂いがするので、昔の人たちは、ふじばかまを匂い袋にして身につけていたそうだ。野に咲く花たちを、布に染めたり、化粧品にしたりと、女たちの生活に取り入れた知恵には脱帽。自然の色は素晴らしく、それぞれに名前をつけて身近なものにした先代の人々に感謝したい。私の好きなイヌタデ。サクラタデも可愛い。藍染にするタデアイは別種類のもので、お目にかかったことはないが。

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軽井沢でのんびりと

18日から20日まで軽井沢碓氷峠、富岡製糸工場に出かけた。軽井沢では白糸の滝、浅間山などにも足を運んだ。空気が爽やかで、暑くもなく、寒くもなく、台風騒ぎはどこかに飛んでいた。久しぶりにのんびりと時間を過ごせた。

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 白糸の滝も浅間山の噴火によって形成されたものであるそうだ。とても不思議な光景だった。自然の冷蔵庫に入っているような感じで、涼しかった。

 1783年浅間山が噴火し、その際に出た火砕流が山の斜面を下り、最後に鬼押溶岩流が出て、それらが固まって堆積している場所を見た。真っ黒の溶岩を見ただけでも、大噴火だったと想像がつく。大きな岩の間から、様々な木々や草花が咲いていて、ホットした。暗いところで光を出す苔などが生えていた。ナナカマドやツツジなどもあり、四季折々に美しい色に変化するのだろう。アキノキリンソウが健気に姿を見せていた。

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3年前に世界遺産に指定された富岡製糸場まで足を伸ばした。明治時代の初期に大規模な機械で生糸を製造した場所。当時の日本の経済を女たちの労働で支えた場であった。

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秋の気配が

 日中は暑いが、湿気が少なくなり、爽やかな秋の気配を感じる。台風が日本に近づいていて、その影響を受けたところでは雨の被害を受けている。気象庁の報告では梅雨の6月よりは台風の9月の方が雨の量が多いそうだ。川が決壊し、たちまちのうちに、多くの家が浸水している。道はまるで川のようになっている。こうした光景をテレビ画面で見るたびに、なんとか自然災害から守られる手立てが打てないものかと心が傷む。不当な多額の資金がある特定の機関に投入されたり、軍事費を増大させるのではなく、人々が安心して暮らせるために、政府は防災や災害支援へ財政投入しなければならないと思う。

 爽やかなお天気なので、ベランダに置いてあるテーブルと椅子をペンキで塗り替えた。この二年間雨ざらしと、鳩の遊び場になっていて、かなり腐食し始めていた。

 ようやくベンチとテーブルを綺麗にしたい気持ちになった。ここで絵を描いたり、本を読んだり、ランチをしたりと、のんびり過ごしたいと思った。最初の色は薄茶色だった。何度か塗り直しているので、その度に色が濃くなっていく。今回はアイボリーだったが、蓋を開けてみると、結構チョコレート色に近かった。2度塗りをしようと思うので、明日まで待つ。

 

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ペンキ塗り直し

 

母の遺品整理

 10日、妹と娘と一緒に母の家に行き、遺品の整理をした。母が日常的に使っていたものや、着ていた服などがたくさんある。下着類もあちこちの整理ダンスの引き出しにたくさん入っていた。父が亡くなってから10数年一人暮らしをし、そのあと3年ほどケア・ハウスにお世話になった。最後は11ヶ月間、大腿骨骨折のために、入退院を繰り返したが、毅然として生きた人だった。

 洗濯が好きで、夏などは朝晩に洗濯をしていた。下着や寝間着類が次々でてきた。病気をし、人の世話にならなければならない時のために、準備をしていたのだろうか。

 母は料理を作るのが好きだった。一人暮らしになってもきちんと食事を摂るようにしていた。それが難しくなった頃に、いろいろと考えてケアハウスに入ったが、そのことを最後まで満足していなかったのではないかと思う。最も期待し、大事に育ててきた息子に裏切られた気持ちがあったのかもしれない。妹と二人でなんとか母の気持ちを和らげ、共にする時間を大事にしてきたが、母と息子の関係を改善することはできなかった。

 母が 使っていた食器類は、もらってくださる方にお送りした。宅急便屋さんが取りにきてくれたので、大助かりだ。母のものが何もかもゴミになるのは耐えられない。少しでも役立てることができれば、母も喜んでくれるだろう。

 ものが溢れる豊かな時代になったが、その分だけ人との関係が薄れたとすれば、精神的に失ったものが大きいとすれば、かなしい。

 

北波誠さんの追悼会

 9月5日午後6時から北波誠さんの追悼会が京都であった。彼は突然6月10日に膵臓癌で亡くなった。彼は京都新聞社で長年勤務し、退職後も仕事を続けた。異業種交流会を持ち、何かことある度に三条の「伏見」に召集がかかった。いろんな方との出会いの場を作ってくれた。秋の満月の日には、西賀茂の正伝寺で月見会を開催してくれた。比叡山の上に現れる満月は素晴らしかった。ススキを生けてくれる人、料理を運んでくれる人、尺八を披露してくれる人、歌を詠む人、さまざまな才能が披露され、酒席とは違う趣と、新たな出会いもあった。

 北波さんは大学の2年先輩で私が京都で暮らしていることを伝え聞き、この異業種交流会に声をかけてくれたことがきっかけで、実に様々な方と出会いの場を与えてくださった。北波さんに最後にお会いしたのは、都市開発で「伏見」が店を閉める前の会合だった。ちょうど一年前だった。

 追悼会に集まった人たちの中に何人かが、北波さんに今年の5月18日に出会ったのが最後だったと話してくれた。その時にはとても辛そうで、数歩歩くと、立ち止まったという。その後病院を出たり、入ったりし、わずか一ヶ月足らずでこの世を去って行ったという。ご本人はまさかと思っただろう。まだまだやりたいこともあっただろう。

 ダジャレが好きで、ドドイツ協会などを作っていたそうだ。大学時代には文学雑誌を発行し、自らも小説を発表していた。卒業後も「書くこと」に挑戦して、新聞社に勤められたのだと思う。労働組合の委員長を務められたり、社内の人権委員会にも関わられていたという。おそらく、地方の小規模な大学で地道に学び、60年代を経験した世代の人たちの正義感や責任などが底流にあったのだと思う。

 妙心寺の和尚さんが北波さんに読経をされた。私にとって初めて聞くお経だった。妙心寺臨済宗妙心寺派総本山。この和尚さんには以前にもお会いしたことがあるが、とても優しい声の読経に聞き入った。

 京都新聞社の元同僚だった人たちや、木工芸人間国宝村山明さん、陶芸家の竹中浩さん、ギャラリー経営者の人見ジュン子さん、歌手の野田淳子さん、朝鮮通信使を明らかにした仲尾宏さん、男性学伊藤公雄さんら、多くの人が北波さんが残したものを静かに偲んだ。

 北波さんの元同僚だった永澄憲史さんの声かけで北波さんを偲ぶ会が実現した。永澄さん、ありがとう。

 

 

 

9月3日(日)仙人草に出会う

 久しぶりに鴨川沿いの河原から植物園を散歩した。夏に生い茂った草は丁寧に刈られて、すっかり美しい河原になっていた。ムンムンする夏草の香りは消え、涼しい風が気持ちいい。川の土手に仙人草が真っ白い花をたくさんつけていた。十文字草によく似ているが花びらが4枚なので、仙人草。十文字草は花びらが5枚で大の字に似ている。

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植物園もすっかり様変わりをしていて、秋の準備をしていた。温室の前の人工池には睡蓮の花が咲いていた。f:id:mwenge:20170905140639j:plain

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フランス語の授業にでる 

9月1日、3週間の夏休みが終わり、フランス語の夏学期後半がはじまった。受講生6人の小規模クラス。フランス人の先生ミシェルは、最後の授業で肋骨を3本折り、救急車で運ばれた。とてもお天気のいい日で、自宅から日仏会館に自転車で通う途中、鴨川沿いを走っていると、セミが飛んできたので、急ブレーキをかけたときに、バランスを崩して脇溝に落ちて、肋骨を折ったそうだ。そのあと、ランチパーティに参加し(私は不参加だった)、午後には2時間のフランス語の授業があった。私たちは先生が肋骨を折っていることも知らず、授業を受けていた。授業が終わったあと、救急車で病院に運ばれた。雨が降り出し、雨やどりのために日仏会館の前で雨やどりをしていると、ミシェル先生が顔をしかめて出てこられ、救急車に乗り込んだ。

 今日の授業でわかったことは、肋骨を3本折り、ちょうど1ヶ月で治ったとおっしゃった。ボルドゥの故郷に帰り、親孝行をしてきたと話した。私も以前、雪の日に転んで肋骨を1本折ったが、やはり治るのに一カ月はかかった。とても不自由な生活を強いられた。

 さて、今日のフランス語の授業は、関係代名詞のoùの使い方だった。一般にoù = where は英語では関係副詞であるが、どうもフランス語では関係代名詞の部類に入れるそうだ。そのあたり納得がいかないが、そう理解するしかない。oùの役割をどう呼ぼうが、文の構造については理解できるのでよしとする。

 久しぶりにお赤飯をたき、茄子と南京とピーマンの合せ炊きを作る。大根、しいたけ、豆腐、薄揚げなど具たくさんの味噌汁を添える。なんだか、カロリーカットと、健康食を意識すると、日本の農民文化を作ってきた和食となる。