Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

毎日があっという間に過ぎる

ブログを書こうと思って、机の前に座るが、この一週間何をやっていたのか、全く思い出せない。ただ時間だけは過ぎている。秋晴れの日が続くので、朝の散歩は欠かさないでいる。携帯電話で撮った写真だけが、記憶を記録している。11月3日には、植物園の中をぶらぶらと散歩をしている。ミニガーデンの作品展をやっていた。

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4日には久しぶりにピザを焼いてランチを楽しんだ。ご飯もパンもなかったので。

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11月6日、京都精華大学に、 Dr.Marie Louise Pattersonさんが講演にやってきた。両親がアメリカ黒人詩人のラングスン・ヒューズと親交があり、多くの往復書簡を残していることを知り、それらを一冊の本にした。Letters from Langston. 彼女自身は小児科医だったそうだが、両親の死後、遺品を整理していると多くの書簡が出てきたので、それらを次世代に伝える責務を感じたという。京都精華大学の教員であるレベッカ・ジェニスンさんの誘いを受けて、メアリーさんの講演を聞きに行った。私にとって、学生時代に、ラングストン・ヒューズらの作品を読んで、アメリカ黒人の歴史を知るきっかけとなった。とても懐かしい気持ちと、彼女の熱意ある姿勢に感銘を受けた。講演終了後タイ料理を楽しんだ。

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11月7日。掃除と洗濯に明け暮れる。布団の入れ替えを済ませる。季節が変わったのを実感。

 

気分転換にピンクのバラの鉢植えを購入。「大人の小学校」のバラの手入れのボランティアをしていたり、バラを鑑賞するグループの影響を受け、最近バラの栽培に関心が芽生える。玄関口のミニバラと花が咲き終わった三種類のバラ。毎日害虫や病気の点検を怠らない。

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パリ 第四日目

11月1日。オペラ座の近くにあるロワシーバスの停留所から、約1時間でシャルル・ド・ゴール空港に着く。今回フィンランド航空の格安チケットを購入したために、ヘルシンキを経由することになっていた。ヘルシンキー名古屋間は約9時間なので、問題はない。そこから各ヨーロッパの主要都市まで約3時間。これもさほど苦にはならない。だが、直行便があるなら、直行便の方が精神的にはもっと気楽だ。昨年は、JALの羽田からロンドン直行便で行った。帰りも同じルートだった。今回はパリに行きたかったので、このような選択になった。ヘルシンキでは乗り継ぎに要する時刻は1時間と割と短いものだった。

 シャルル・ド・ゴール空港では出発間際に、若いカップルが飛行機から降ろされた。具合が悪くなったらしいが、何やらスタッフたちと何度もやり取りをしている様子だった。結果として、二人が降りることを機内アナウンスで知らされ、二人の荷物を飛行機から降ろさなければならない。すでに出発時刻から1時間は遅れている。ヘルシンキでの待ち時間は1時間なので、私たちの乗り継ぎ便はどうなるのか心配だった。アナウンスによると、乗り継ぎ便は待っているので心配しないとのこと。実際には飛行機がヘルシンキに到着した後、アナウンスがあり、急いで次の出発便の搭乗口に移動するように言われた。フィンランドは、私が好きなマリメッコのお店や、ムーミンのお店があり、帰りにゆっくり見ようと思っていたのが、全く叶わなかった。

 数年前に、南アフリカの作家アンドレ・ブリンクは講演の帰りに飛行機の中で心不全を起こして亡くなった。そんなこともあるので、体の具合が悪いという人を飛行機に乗せてそのまま飛ぶことはできないのは、当然のことだし、乗客も我慢しなければならない。長距離の旅には予想しないこともついてくる。大きく受け止める心が求められた。

 格安チケットだったので、座席は事前予約があったが、3段階の値段が設定されていた。プレミアム・シートよりはずっと安かったので、一番いい席を予約しておいたので、気持ちよく空の旅ができた。

 前日のお昼にパリを出発して、翌朝、無事に名古屋のセントレア空港に帰国できた。関空からも便があったが、予約した時には、関空が台風の影響を受け、浸水騒ぎで、滑走路の閉鎖があり、どのような状況になるかわからなかったので、名古屋便を使うことになった。関空へ行くよりは、少々運賃は高くついたが、時間的にはそれほど変わりはなかった。

 パリでは、フランス語しか通じない人がいたのは、少しびっくりした。私の拙いフランス語を駆使して何とか会話ができたのは、この数年のフランス語学習のおかげだった。

 

 

パリ 第三日目

時間を短縮するために、自然史博物館、植物園、エッフェル塔、人類博物館、モンマルトルの丘、サクレ・クールに出かけた。それぞれが行きたい場所をあげ、その中から私がどうしても行きたい人類博物館とモンマルトルの丘だけは今日の予定の中に入れた。

自然史博物館は10時に開館するので、博物館に隣接する植物園の中を散策した。二人でよく京都の植物園を散歩しているので、それぞれに植物園の中を歩くのは好きだ。冬を前にして花々は枯れ始めていた。春や夏に来れば素敵な植物たちに出会えるのにと少し残念な気分であった。他の植物園とは違って、様々な種類の花々たちが畝に植えられていて、明らかに観賞用ではなく、研究用に作られている感じがした。17世紀に「王立薬用植物園」として開設したとのことを知り、納得できた。自然史博物館に、ジョルジュ・キュヴィエの銅像があった。彼はフランスの自然史の発展に寄与した学者だろうが、私にとっては南アフリカのサラ・バートマンが人類博物館に陳列されるという事態に関与した人として大きくショックを受けていたので、彼の名前を見るなり、少し憤りを感じた。午後からはその人類博物館に行く予定にしていた。

秋の木々の特徴は美しい色の実をつけること。この実と葉っぱを見て名前を言い当てることができるといいなあと思う。日本にもよく似た木がある。自然史博物館には、化石や地層の変化を紹介する建物と、動物たちの進化を一堂に陳列していたのは驚き。

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地下鉄で、エッフェル塔のある近くまで移動。セーヌ川側から行けば、すぐにわかるのだが、建物に隠れてエッフェル塔が見えないので、方角を道ゆく人に尋ねてしばらく歩いていると、エッフェル塔が見えてきた。パリ万博の目玉として、このような芸術的な塔が建てられた。セーヌ川を挟んだ、トロカデロ地区に人類博物館があった。この博物館は、シャイヨ宮殿の左側の建物でもある。1878年に創設された「トロカデロ民族誌博物館」の後身で、1937年に国際博覧会の催事として設立されたとのこと。1970年代後半まで、南アフリカのサラ・バートマンが剥製され、展示されていたことで物議を醸し、バートマンはアパルトヘイト後の南アフリカに帰国を許され、故郷の村に埋葬された。国家行事として行われ、時の大統領ターボ・ムベキは「野蛮なのはサラ・バートマンではなく、サラをそのように野蛮に扱ったヨーロッパの人々だ」と述べたことは知られる。 

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そして、モンマルトルの丘に行く。フランスには今回四度目だが、毎回ここには行く。最初にサクレ・クール寺院を夕日が照らして、黄金色に浮かび上がっていた光景にしばし釘付けになった。この丘には若き日の芸術家たちの溜まり場であったり、キャパレー「ムーラン・ルージュ」には音楽家たちなども集まった。若き日のヘミングウェイも出入りしていたことも懐かしく思い出される。ゴッホもこの地を描いた。ルノワールセザンヌピサーロロートレックユトリロモディリアーニピカソ等などが、ここの通りを歩いていたと思うと嬉しくなる。

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ヨーロスターでパリに

10月29日、ロンドンのセントパンクラスからパリのノード駅まで2時間15分の旅。

いつもなら飛行機で移動していたが、今回は鉄道の旅を選択した。飛行場に行くのに1時間近くかかり、待ち時間と飛行時間、パリの空港から街中までの時間を合わせると、4〜5時間はかかる。宿泊していたホテルは、ロンドン大学のすぐ近くにあり、ヨーロスターの出発駅までは、地下鉄で一駅のところにある。日本でなら、京都から東京に移動するようなものだ。日本でヨーロスターの座席を予約し、ロンドンの駅で事前にチケットを発券しておくだけの手間だけで済む。

 セントパンクラス駅では、出国手続きがあり、手荷物検査とパスポートチェックがあった。列車は結構満員だった。市街地の喧騒を離れると、のどかな田舎風景に変わった。やがてあたりが真っ黒になり、ドーバー海峡の海底トンネルを通過しているのだと実感した。あっという間にフランスに入り、またもや田舎風景に変わったが、イギリスもフランスもよく似た景色だと思った。1時間ほどするとパリのノード駅(北駅)に到着。この駅はパリの中心街にあり、いろんな地下鉄、国鉄の交差点にある。およそ25年前に初めて一人でパリを訪れた時、知らないでこの北駅の近くに宿泊したことを思い出すが、すっかりあたりの様子は変わっていて、大きな近代的な駅となり、幾層にも地下街が交差していて、地上への出口がわかりにくかった。

 パリの宿泊は、これまでも何度もインターネットでホテルを探して、日本から予約しておいてあるので、あとは住所を頼りに行くだけ。今回はフランス語の先生にどの地区に宿泊するのがいいか尋ねておいた。先生は即座にオペラ座の近くと教えてくれたので、そのようにした。フランスはカタツムリ状に一区から二十区まであるので、このオペラ座があるのは、第二区。もっとも街の中心地で、交通の便もいいところだが、重たい荷物を持って地下鉄の乗り換えなどは大変なので、タクシーで行くことにした。一つの目印にしていたラファイエット百貨店もオペラ座の隣にあり、よく歩いた地域でもあった。

 パリの街は放射線状にできているので、どの道かよくわからないが、ロンドンとは違った雰囲気の白い巨大な建物の間をすり抜けて、あっという間にホテルに着いた。小さなホテルだが、これまでに泊まったことがあるどのホテルよりも、部屋が広くて、開放感があった。このホテルに3泊4日滞在したのだが、毎朝の朝食はブッフェ形式でとても満足できた。ロンドンでいつも滞在するホテルは巨大ホテルで、海外からくる修学旅行生や観光客が泊まるような古いホテルなので、シリアルとパンと果物と飲み物の簡単な朝食だったが、パリのホテルは一応、幾種類ものハムやチーズ、卵のオムレツやゆで卵、ソーセージ、新鮮な果物、飲み物などが用意されていた。毎朝、異なる日本人家族や、グループの人たちに出会った。おそらく日本の旅行社からも推薦されているこじんまりしたホテルなのだろう。ホテルの隣には韓国料理店、前にはタイ・ベトナム料理店、少し離れたところにはフランス料理店などがあり、すごく便利な場所だった。今回は訪れなかったが、すぐ近くにジュンク堂がある。

 ホテルの周辺を探索に出かけた。パリからヘルシンキを経由して名古屋に帰るので、オペラ座のところからドゴール空港行きの空港バスが出ているので、その場所も確認しておいた。ホテルから歩いて5分ほどのところ。

 夫はパリが初めてだったので、観光を第一にした。まずルーブル博物館に行ったが、あいにく休館日だったので、地下鉄でシャンゼリゼ通りまで行き、凱旋門を見学した。夫は凱旋門に登りたかったが、大勢の観光客で長蛇の列だったので、諦めた。バスで川向こうのオルセー美術館に行った。ちょうどピカソの「赤と青の時代」とゴッホの特別展をしていた。あいにく午前中雨が降っていたので、ここにも大勢の人がこの美術館にやってきていた。待ち時間がおよそ1時間半ほどあり、長蛇の列を辛抱強く待った。以前にもこの美術館に来たことがあるが、広すぎて次第に疲れてくるので、まずはお目当のゴッホピカソをゆっくり観ることにした。

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シテ島にあるノートルダム大聖堂を見学に行く。数年前に訪れたサン・シャペル寺院の前は素通りした。とても残念だったが、仕方がない。ノートルダム大聖堂の荘厳さを前にして、身が引き締まる思いがする。ローマ・カトリックの大聖堂で、ゴシック建築。何度も破壊、再建を繰り返し、現在の姿。ヨーロッパの教会は戦禍で破壊されても、ほぼ元どおりに再建されるている。それは建築当時の製図なりが記録として残されているからだ。歴史の重みを感じる。

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10月25日から11月2日までロンドン・パリに

あっという間に時間が経ってしまう。今回は、ロンドン大学のSOAS(School of Oriental and African Studies)の催しで、スワヒリ語に関する会議が10月27日にあった。私自身に直接関わりがないが、夫の長年の研究テーマでもあるので、一緒に参加した。ファロク・トパン先生の長年の業績を記念するものでもあった。夫はトパン先生に40年ほど前にナイロビ大学でお出会いしていたとのこと。他に参加していたケニアの作家アブドゥラ・アブラダティフさんは、夫とも知り合いであったが、私自身は6月にワシントンDCで開催されたアフリカ文学会でお出会いしていたので、私のことも覚えてくれていた。あまり大きくない会議だったが、それでも多くはスワヒリ語やスワヒリ文学について英語で発表していたので、私にも少しは理解できるところはあった。

 会議の前日に久しぶりにロンドン・タワーを見学に出かけた。ロンドン・タワーの周辺には大きな近代的なビルが立ち並び、伝統と近代が入り混じってる感じになっていた。観光客がめだった。ここは夏目漱石も訪れたことがあり、「倫敦塔」を書いていることはよく知られる。

 古くにはイギリス国王の宮殿として知られ、13世紀には政治犯の収監、処刑場ともなり、14世紀以降は政敵や反逆者を処刑する死刑場ともなった。だからか、ここには黒いカラスが住みついている。こうしたことは漱石も詳しく書いている。

 

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ロンドン大学 SOASでの会議。

中東の不確実性と時代祭り

 サウジアラビアのジャーナリスト・ジャマル・カショジさんがトルコのイスタンブールにあるサウジ総領事館内で殺害された。サウジアラビアの皇太子が関与しているともいわれるが、サウジ側は必死で否定している。一方、トルコのエルドアン大統領はサウジ総領事館内でカショジ記者が殺されたと主張している。

 サウジアラビアのムハマド・ビン・サルマン皇太子と電話で話した直後に殺されていることから、皇太子の関与があったとみられる。領事館という治外法権がある場で暗殺されたとなると、これはひどい話だが、サウジ側は皇太子の関与はなかったと主張している。

 こうした論理の展開は、日本の安倍首相を必死で守ろうとする取り巻き連中のやり口と同根のものと感じる。現代社会においてこんな人権無視の暴力を許してはならないと思う。独裁国家、独裁者の暴挙はあまりにも前近代的だ。

 サウジアラビア独裁国家をトランプは支持しているが、この問題をアメリカはどう解決するのだろうか。アメリカ追随の安倍首相はどうするのだろうか。

 

 22日は京都では時代祭だった。午前中娘の用事に付き合い、昼食を共にした後、娘に烏丸御池まで車に乗せてもらった。ちょうど時代祭りの行列が御所を出て御池に差し掛かる頃だった。明治時代から始まり、時代は後に遡っていく。しばらく御池の角で観ていた。

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ちょうど北行きのバスが停まったので、バスにとび乗った。バスは、烏丸通を北に向かっていたので、時代祭りをバスの窓から見ることができた。艶やかな姿でゆっくり進む行列は見事だった。京都に45年も暮らしていると、何度も時代祭りを観てきたが、同じ時代祭りでもその時々で違って見える。ケープタウンから遊びに来た友人たちと一度は御池通りで、別の友人とは御所の中で席料を払って観たことがある。御所の中で特等席を手に入れたのは、前日が雨で中止になり、予定を変更できない旅行者たちの席が空いていたからだった。偶然にも椅子席で時代祭りを間近に最初から最後まで見物できた。立派なパンフレットを手にして、詳しい説明を聞きながら楽しんだ。日本の歴史を再確認できた。

 

 

 

 

10月20日 ウォーレ・ショインカさんの講演

 10月20日京都精華大学ノーベル文学賞の受賞者ウォーレ・ショインカさんが講演をした。朝日新聞社主催の行事だったが、今京都精華大学の学長ウスビ・サコさんはアフリカのマリ出身で日本で初のアフリカ人学長なので、この催しが実現した。

 まずショインカさんの基調講演があった。続いて、ショインカさんとサコさん二人のアフリカ人が、朝日新聞社の安東建さんの司会で、対談という形式をとった。残念なのは、会場からいくつもの質問があったが、それらはうまく利用されず、会場との対話ができなかったのは残念だった。

 公表されていたシンポジウムのタイトルは、「グローバル化された世界における「表現」の未来」だったが、「表現」の話題というよりは、主として「教育」の問題を中心に話された。

 ショインカさんは自らの経験から科学する心の重要性を語った。科学的に、論理的に思考する道筋と、創造力を開発する努力とは矛盾しないものだという。人間は進化の過程にいて、まだまだ成長していかなければならない。そのためには様々に巡らされた境界線を越えていく努力が必要だという。何ものにも囚われず、挑戦していく精神が大切だと語った。

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ショインカさんに最初に出会ったのは、1986年ノーベル賞を受賞した翌年だったと思う。たまたま訪れていたロンドンのコベント・ガーデンにあるアフリカ・センターの螺旋階段で出会った。簡単な挨拶を交わしたあと、ショインカさんはすぐに日本に行くよと言われた。大阪で開催されされた「人類の創造力は永遠か」(大阪青年会議所毎日放送毎日新聞社共催)の国際シンポジウム(大阪国際交流センター)に招待されていた。その直後、宮本正興がショインカと対談し、その様子は毎日新聞に掲載された。極めてインテレクチュアルな人だが、誰にでも優しく接する人だという印象を得た。

 その後も、私が参加するアフリカ文学会にも招待され、スピーチをされた。ショインカさんの妹が働くカンサス大学や、最近ではドイツのバイロイト大学にもこられた。昨年はロンドン大学で開催された「マケレレ大学会議から50年」のシンポジウムでスピーチをされた。そこでもお会いした。今年84歳になられるが、全くずっと同じく年齢を感じさせない、声には張りがあり、主張は明晰だった。

 かなり前には、ナイジェリアの詩人で環境問題の活動家ケン・サロウィワが公衆の面前で処刑されたとき、ナイジェリア政府に抗議して亡命した。そして最近ではアメリカではトランプが大統領になったことで、アメリカのグリーンカードを返還した。表現の自由を求めて、現実の政治状況とも闘ってきた人だ。

 私が京都精華大学に勤めていた頃には、二度アフリカ人作家会議を開催し、ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴや、南アフリカの作家デニス・ブルータス、ウィリー・コティティレ、チナ・ムショーペなどが熱くアフリカ人作家としての役割を語った。それと同じ場所で、ショインカが私たちに向けて語っていることを感慨深く受け止めた。

 久しぶりに、東京、広島、大阪、奈良などから駆けつけた日本のアフリカ文学研究者とも出会えた。京都精華大学に感謝。

 会議終了後、京都駅の近くでショインカさんを交えて、夕食会があった。私はショインカさんの妹さんとも友人であることを伝えると、携帯電話を取り出し、電話をしようかと気さくに言っていた。とてもチャーミングな一面を見せる。写真はその時のもの。