Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

ニュー・ヘブンからニューヨークに

 17日(土)夜7時からオムニ・ニューヘブン・ホテルでアフリカ文学会の恒例の晩餐会があった。前日にオティからアフリカスタイルの上着を購入したので、ロングスドレスの上から羽織った。テルマもオティからアフリカンドレスを買った。子供のようにはしゃいでオティが持ってきたドレスをひっかえとっかえ着て楽しんだ。晩餐会には多くの人が、女性も男性も、アフリカンドレスを着て競いあうところがあるので、華やかだ。

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 私はアフリカ文学会の評議員の任期が終わりほっとしていたところ、名前を呼ばれ、思いがけず功労賞の盾を贈呈された。誰からもおめでとうを声をかけてもらった。それほどの働きはしていないが、日本から私一人でもがこの文学会に参加していることは貴重な存在なのかもしれない。

 18日(日)誰もが帰路につく日だ。私は荷物をパックして、ホテルをチェックアウトし、テルマとジョージが宿泊しているホテルに行く。スタバックスでコーヒーとサンドウィッチで、朝食をすませる。ジョージは若い頃に、一時期イェール大学で教えていたことがあり、懐かしんでいた。彼が通っていた教会を見に行く。エピスコパル教会で、いわゆるアメリカ聖公会のことのようだ。ジョージの友人が車で迎えに来てくれ、ニューヘブンの街やジョージが以前に暮らしていた家を見て回る。典型的なアメリカスタイルの家で、美しく使われていたことにジョージはとても満足していた。

 若者たちに人気があるレストランに入り、イカのフライ、ラタトゥイユ、ピッツア、きのこ類、アスパラなどを4人でシェアした。どれも美味しくいただいた。今回の旅では食べ物に恵まれていた。

 ジョージたちにニュー・ヘブンの駅まで送ってもらった。切符代はシニア料金が設定されていて、値引きをしてもらった。アムトラックで、ニューヨークのペン駅まで1時間半。駅でアフリカ文学会の長年の知り合い、ジンバブエの女性作家ヴァージニア・ピリと一緒になった。ペン駅でロング・アイランド線に乗り換え、友人の家の向かう。今度で3度目。彼女のお父さんが住んでいた家には2度も泊めたもらったことがある。友人もアフリカ文学の研究者で、ニューヨークの大学で教えている。20年もの友人で、アフリカ文学会には発表のためにだけ参加し、一泊して先に帰った。お父さんの家を売却するために、整理をしなければならないとのことだ。連絡はWhats appで取り合っていたが、WiFiがつながらないので、困った。彼女のフラットがある駅で降りたが、彼女はお父さんの家に行っているので、フラットにはいない。どう連絡を取ればいいか困っていたら、近くにモバイルショップがあったので、WiFiにつなげて、なんとか連絡を取った。そして同じフラットに住む友人にドアを開けてもらった。

 部屋の中には、WiFiのパスワードが書かれたメモがあり、電話番号まで知らせてくれていた。肝心のWiFi の名前がわからなかったので、電話をかけることにした。

 しばらくして、友人から電話があり、お寿司でもデリバリーで頼むので、ドアの開け方を知らせてくれた。知らない人に入ってこられるのも、めんどくさいし、取り立てて日本食を食べたいわけでもないので、断る。彼女の帰りがかなり遅くなるようなので、勝手に冷蔵庫の中に入っていた人参とチンゲンサイを炒めて、レモン醤油で食べた。彼女は、厳格なベジタリアンなので、食べ物に関してはなかなかな哲学を持っている。明日にも野菜を買っておこう。

Boubacar Boris Diopさんの講演

Boubacar Boris Diopさんはフランコフォン・アフリカで著名な作家であり、詩人として知られる。さらには、演劇、評論の部門でも大活躍。セネガルの独立新聞社 Le Matin de Dakar (ダカールの朝)の編集者でもあった。フランス語でQue dit Cheikh Anta Diop aux ecrivain africains? というタイトルで講演があった。「シェイク・アンタ・ディオップはアフリカ人作家に何を言ったか』というタイトルで講演した。

 シェイク・アンタ・ディオップ(1923−1986)は、セネガルの著名な歴史学者、人類学者であり、アフリカ中心の世界観を持っていた。その彼がアフリカ文学、アフリカ人作家に何を語ったかという問題提起だった。様々なアフリカ民族がそれぞれの言語で彼らの文化を発展してきたところに目をつけて、彼流の世界観を展開してきた。彼の思想の影響を多くのアフリカ人作家が受けた。ケニアグギ・ワ・ジオンゴなどはその一人だ。現在では、彼の思想の重要性を継承していくことが重要だと語った。彼の思想は古くから議論されてきたが、実践の困難さ、難しさを生み出しているのは何かを見極めなければならないと。

 Boubacar Boris Diopのフランス語は流れるように聞こえてきた。初めてフランス語の講演に耳をすますことができて、感激した。プロジェクターで英語に翻訳した部分が映し出された。

ブチ・エメチェタを偲ぶ

アフリカ文学会の第二日目。午後からナイジェリアの女性作家ブチ・エメチェタを偲ぶ会が3時間半にわたってあった。ブチを知る人たちが、思い出を語った。

アフリカ人女性作家として第一世代を担う。私と同じ年齢なので、早くに亡くなったことが惜しまれる。心臓発作とのこと。長男のSlvester Onwordiがさんかこの日のために招待されていた。.Buchi Emechetaは生涯自分の名前で作家活動をしていたので、息子は父親の姓を名乗っている。

 Ernest Emenyonu, Helen Chulwuma, Anthonia Kalu, Akachi Ezeigho, Ad Azodo, Wangui Wa Goro, Debra Boyd, Abena Busia, Kajija Sesay, Otymeyin Agbajoh-Laoye, Thelma Pinto, Marie Umeh らが追悼の辞を述べた。

 私自身は1985年に初めて、ブチ・エメチェタにロンドンの自宅で出会った。それから、ロンドンに訪れる度に出会う機会があった。ある時、ロンドンでアフリカ人作家会議のようなものがあり、ブチの発言の番が来た時に、いきなり怒り出したことを今でも覚えている。つまり女性作家と男性作家の扱いかたが違うと言って、会議の中でも性差別があることを気づかせたのだった。

 もう30年前のことだが、いろいろ思い出した。どのように最初出会ったのかは忘れたが、自宅に招かれた。多分電話をかけて、指示通りにロンドンの北の郊外の家を訪ねて行ったのが始まりだったように思う。当時私がアリス・ウォーカの短編集を翻訳していたのと、ナイロビで開催された「国連女性の年」の会議の後にロンドンに立ち寄ったので、ついWomanism、Feminismの違いを話したと思う。ブチは「私はWomanismの立場」と即刻答えた。アフリカ人女性作家で、自らの体験を語り始めた最初の世代だった。彼女の体験はある意味でアフリカ女性、さらには世界中の女性の苦しみや怒りを表現するものだった。日本人がアフリカ人女性作家に注目していることに偉く感心してくれた。日々の忙しい生活、ナイジェリアとロンドンを往復する生活の中で、唯一飛行機の中の時間が睡眠できると語っていたことが印象的だった。さらにロンドンでの生活を書き始めた時、子どもたちを育てながら、仕事をし、孤独だった時に、誰かに自分の話を聞いてもらいたくて、書き始めたという。それが小説として出版されたのだった。誰もまだ起きてこない早朝の静かな時間に書き続けていると言った。

 今では、チママンダ・ンゴジ・アディティエのように書けば、語れば、どんどん収入にもなるし、作家として崇められる時代ではなかった。

 ブチ・エメチェタやアリス・ウォーカーのような女性作家たちの作品に励まされて、懸命に読書をした日々のことが思い出された。

 

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発表は第一セッションの突端

アフリカ文学会スタートがした。イェール大学の端っこにあるアフリカ・アメリカ文化センターで受付やら、事務連絡がある場所だ。情報を得るために一日に一度は来ることになる。今回の学会の本部と成る。あまり大きくない建物だが、本の販売やアフリカの小間物や服なども売っている。

 アメリカに来て全く日本の情報を得ることができないのが問題だが、facebookやtwetter、デジタル新聞などで重要なことは伝わってくる。

安倍政権のあまりにも民主主義を無視し、安倍首相に降りかかってくる火の粉を払うことばかりで、最も重要な法律については議論していない無茶振りはなんなのだろうか。あまりにも国民を愚弄している。なぜ安倍氏自民党に投票する人が多いのだろうか。絶対に選挙で選んではいけないが、今にこんなことも書けない時代が来るだろう。南アフリカの過去と同じになるのだろうか。不安がいっぱい。

 

New Heaven に到着

 13日の早朝に京都を出発し、伊丹ー羽田ーニューヨークの直行便だった。羽田ーニューヨーク間は12時間30分とかなり便利だった。JAL便だったので、ほぼ90%は日本人の乗客。到着は10時30分。J.F.ケネディー空港からはシャトルバスでNew Heaven Hotelに直行。以前にイェール大学を訪ねた時は、ニューヨークから列車で行き、駅から歩いたように思うが、はっきりとした記憶は遠のいている。

 空港からニューヨークの中心街に出て、そこから列車に乗り、さらに歩くか、タクシーに乗らなければならないことを考えると、シャトルバスのほうが便利だと判断した。

 どこまでも平らな平原と、まばらな建物が続き、ようやくイェール大学の街に入った。2時間ばかり超スピードで高速を飛ばした。

 28度の高熱の夏の気候に変わっていた。ホテルに着き、着替えてから、徒歩で15分ほど歩いて、アフリカンアメリカ文化センターに今回の会議の準備をしてくれたスタッフが数人いた。

 通例ホテルで早朝のモーニングを行っていたが、今回はアフリカン。アメリカン文化センターでやるという。会場まで毎日15分歩かなければならない。

 大学と、一般の街とが混在しているような雰囲気だが、明日ゆっくり観察してみよう。

先日北海道大学で感動したが、このイェール大学もイギリスやヨーロッパの教育を建物とともに持ち込んだのだろう。そしてアメリカ開拓民にとって、彼らの新しい天国を作ることが第一指名だったのだろうか。

 

 ずっと以前にケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴがイエールで教えていた時、案内された。キャンパスでは白人の女子学生に「ジャップ」と罵られた。黒人の教師と日本人がエリート校を歩いていることが我慢ならなかったのかもしれない。

 あるいはアフリカ黒人やアジアの有色人種が白人エリートのキャンパスを汚すのではないというメッセージなのだろう。私が一体何をしたというのか、日本に原爆を投下できたのも、アジア人、日本人に対する差別だろう。アメリカの白人の裕福の家庭の子弟の学ぶところなのか。いい学問環境のところでは社会や政治がどうあろうとも全く関係ないのだろうか。

 今学生は夏休みに入ったので、キャンパスにいる学生はまばらだが、ここ5日ほどイェール大学にいるので観察とインタビューをしてみよう。

 明日はそうしたことも話せるだろうか。 

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この図書館はレアや貴重価値のある本を集めれいる。遮光のための外塀は大理石でできていて、中の本を守る。光が動くたびに、あたらいい文様が大理石に浮かび上がってくる。貴重な初本を維持するためにはガラス張りの中に入れ、本が何万冊と中心にまとめられて、今では湿気や遮光に気を使っている。

ようやく原稿を書く

 明日早朝に京都を出発して伊丹、羽田経由でニューヨーク直行便でイェール大学に行く。アフリカ文学会に出席するため。ようやく原稿を仕上げた。十分ではないが、飛行機の中で少しは手直しができるだろう。お昼に整体に出かけ、大丸で娘と出会う。車の件で京都に来ていたので、お昼を一緒に食べることにした。明日から11日間家を留守にするので、トイレットペーパなどを購入して帰る。

  昨年のアフリカ文学会はアトランタだった。約一年ぶり。南アフリカの作家ゾイ・ウィカムとナイジェリアの作家チママンダ・ンゴジ・アディティエの比較研究を発表する予定。

 

 

守山市もりやま芦刈園のあじさい

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6月10日、土曜。滋賀県守山市もりやま芦刈園にあじさいを見に行った。あじさいが咲き始めたばかりで、まだすこし時期がはやかったが、それでもあじさいたちは優雅に咲いていた。日本のあじさいとヨーロッパのあじさい、それぞれ50種類づつ5000本、合計1万本のあじさいがみられる。10数年前に母が元気だった頃、町内会でバスツアーであじさい園を見学にきたとき、ここで落ち合った。私は車で娘と3歳ほどの孫と一緒にきた。あの頃は母も元気で楽しそうにあじさいをみていた。

 珍しい種類のあじさいが一度にみられるのは楽しい。原種は日本産で、イギリスのバッキンガム宮殿のお庭にあるあじさいは日本からのものだと説明があるほどだ。あじさいはとても根付きがよく、花が咲き終わるといつも剪定をして、払った枝などを突き刺すだけで次の年にうまく咲く。我が家にあるあじさいはガクアジサイで、「隅田の花火」と名されるものが元気よく咲いている。

 白から淡いピンク、濃いピンク、赤、青、紫など土質や水分の関係でさまざまな色に変化していくのを見るのも楽しい。なんとも言えないあじさい色にロマンを感じる。

 のんびりとした半日だった。