Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

月命日と疲労困憊

毎朝、空気が冷たい。行動が鈍るのはしかたがないとしても、毎日がこんなに寒いと体が縮んでしまう。

毎月5日は義母の月命日なので、お寺のお坊さんがお経をあげにくる。すっかり忘れていたので、お坊さんがこられた時には家のいなかった。そこで今日に来てもらうことになった。朝からご飯をたき、お坊さんが来られるのをまった。

 お経はいつも聞きながら、文字を目で追う。だけどもなかなかついていくのは難しい。声を出して読むのはなおさら。

 お昼寝の習慣はないが、あまりにも疲れていて、何事にも集中ができずにいたので、小一時間ほどベッドに入って寝る。目をさますと、頭がすっきりした。

 トランプ大統領はツイッターでいろいろとつぶやいているが、言葉の暴力を振りまいているようにしか思わない。私はあまりツイッターをしないし、あまり見ない。身始めると、どんどんいろんな情報が流れていく。一つ一つに反応しようとすれば、十分に考える間も無く、思わずのつぶやきになる。何を以前に書いたのかも忘れてしまうほどの個人的つぶやきにしかすぎない。

 国を代表する大統領がなぜツイッターのようなもので暴言を吐くのだろうか。メディアを徹底的に敵視し、自分のツイッターの発信だけが正しいとするのはどうだろうか。あまりにも、無責任すぎる。「アメリカ第一」主義を掲げ、中東、アフリカ7カ国の人々をアメリカに入国させない。これは国交断絶宣言にも等しいのではないか。この問題は法廷闘争に持ち込まれたが、その是非を問う世論調査を発表するメディアの報道はすべて虚偽だとトランプ大統領はツイッターで暴言を吐く。

 トランプ大統領は、世界のリーダーと仲良くするために、ゴルフをするという。民衆無視の政治も甚だしい。それにのっかる安倍首相もどうかと思う。ゴルフをしながら、国家の大事な問題が議論できるのだろうか。正々堂々とメディアのカメラの前で、対等に議論してほしい。

 

  

英語を教えに行く

中学2年生の孫に英語を教えに行く。2年生の3学期が始まり、1ヶ月近くになる。中学3年生は受験で忙しい。中学2年生に受験に向けての指導が始まった。月曜日に実力考査が実施されるというので、これまでの2年間の英語の復習。1か月〜1・5か月の、その都度の学習は完璧でも、1年ほど前に学んだことは忘れている。動詞の変化、動詞の種類、時制、構文、熟語、単数・複数、疑問文、否定文、命令文、様々な注意が求められる。中学で学ぶ英語が基礎力になる。これなくして、今後多くの英文を読むのがしんどくなる。英語の教科書は会話を楽しむ構成になっているが、実際にテストになれば、どれほど英語の文法体系を理解しているかが問われる。いっぺんに外国語に対する興味が薄れる。

 中学の英語の教師の役割はとても大きく、責任も重い。楽しく他者とのコミュニケーションができ、自己を取り巻く社会への関心を持ち、世界の人々と社会を理解出来るツールにならなければならない。言語に関する学習は難しいとつくづく思う。

 午後、友人と待ち合わせJTB旅行代理店で、5月に札幌で開催されるWAN(Women's Action Network)のシンポと理事会の飛行機と宿泊所の計画を立てる。関西から8名の理事が参加する予定なので、まとめて計画を立てることになった。5月の中旬の最も季節の良い時期に札幌に行くことになるので、もう一泊して温泉でも入ってゆっくりとしたいという希望を入れた。パックツアーが格安なのだが、それにしても北海道旅行はとても高くつく。

 相変わらず、トランプ大統領は物議を醸している。7カ国の入国禁止をして大統領令は世界中の抗議の声が上がっているが、賛否は分かれていると、日本のメディアは伝える。日本もそれに迎合して日本からアメリカへ向かう中東やアフリカからの旅行者を飛行機に搭乗させないと決めた。安倍首相は今週にトランプ大統領に会いに行く。アメリカでの雇用創出のために莫大な投資をするという。あれだけ日本国内の雇用創出に関して声高に叫んでいたが、何の成果も見られない。まずは国内優先だろう。トランプ大統領に日本は甘く見られ、それに対して卑屈に安部首相は迎合していく姿勢に幻滅する。

 

母を見舞う

 母は入院4日目。だいぶ落ち着いているようにみえる。熱も平熱になっているが、食事は嚥下訓練食で、ゼリーのようなものだけ。おそらくこの中にはいろんな栄養素が詰め込まれているのだろうが、嚥下ができるように、トロミがついている。水分補給には24時間の点滴で体内の水分を保つようになっている。相変わらず、喉に痰がつくのか、咳が出るたびに苦しそうにしている。時々、看護婦さんが痰の吸引をしてくれる。

 完全看護だが、母は私が訪ねて行くと、手を握って離さない。おそらく寂しいのだろうが、多くの言葉は発しない。何をどうしてあげればいいのかわからない。むくみの出ているところをさすってあげる。少しでも血行をよくして、楽になってくれるといいと思う。

 病室で食べるお弁当は美味しいとは言えないが、部屋の片隅で食べる。いまは母は個室に入っているので、私が食事ができる場所があるだけでもありがたい。

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 同じ道のりでも、帰路はどっと疲れが感じられる。新快速の中でうつらうつらと居眠りをしていた。土曜日なので、バスのダイヤが変わっており、なかなかバスもこない。出かける前におでんを炊き、魔法瓶のお鍋に入れておいたので、美味しく味が滲みていた。野菜サラダを作り、美味しく夕食をいただいた。

 

フランス語の授業と恵方巻き

今日は節分。京都ではあちこちで節分祭が行われる。京都大学の横にある吉田神社では毎年50万人が訪れるほど、人気スポット。フランス語の授業がある日仏会館は京大の横にあるので、日フル会館内のレストランは満員で、たくさんの人が外で待っていた。久しぶりに早く着いたので、コーヒでも飲もうと思ったが、だめだった。

 吉田神社の節分祭には、たくさんの夜店がでて、大勢の人で賑わうので、例年家から歩いて出かけていた。大勢の人で混雑するので、交通停滞が起こり、大変だった。今年は吉田神社にはいかなかった。

 フランス語の授業が終わったあと、館内のレストランでコーヒをのみ、しばらく一緒にフランス語を勉強している人たちとおしゃべりをしていたので、家の帰るのが遅くなった。もう一度百万遍まで出かける気持ちにはならなかった。寒い夜に出るのが億劫になってきた。

 今日は巻き寿司を丸かじりする習慣が関西でいつからか始まっている。恵方を向いて、黙って一本の巻き寿司を丸かじりをすれば、その年の幸運を呼ぶというもの。なんだか、信じられないような、お寿司屋さんの商売戦略のような気もするが、お昼ご飯のときに、海苔巻きを作ろうを思ったが、卵が冷蔵庫の中に入っていなかったので、ちらし寿司を作ることにした。

 京都では古くから、何月何日はこういう「おばんざい」を食べるというしきたりがある。一年中の献立が決まっていて、ある意味では毎日毎日、何を作ろうか、何を食べようかと悩まなくでもいい。合理的な食生活である。恵方巻きの巻き寿司もこうした食習慣の一つと考えれば、気持も楽になる。

 京都には珍しい野菜がたくさんあり、昔から京都の人たちは様々な工夫を凝らした惣菜をつくってきた。私も最近は聖護院かぶらで千枚漬けを何度もつくった。万願寺唐辛子、聖護院ダイコン、九条ネギ、堀川牛蒡、賀茂なす、壬生菜、鹿ヶ谷かぼちゃ、等など。こうした野菜の「炊いたん」をつくる。京都の人に教えて貰ったお惣菜は、心身にやさしい。私も京都人になりつつあるのかなあ。京都人になるには3代暮らさなあかんというので、まだまだ世間には認められないが。

 

 

母が再度入院

     昨夜10時すぎに妹から電話があり、母が再度入院したと知らせてきた。兄からの伝言を知らせてきた。朝から食事もとらず、お茶も呑まないという。一時意識がおかしいとのことで、夕方に入院した。これまで入院していた病院は満室で受け入れられないとのことで、近くの病院にケアハウスから連れて行ってもらった。

   とにかく様子を見に妹と待ち合わせて、病院にいく。これまでお世話になっていた病院からバス停で4つ目先の病院だった。母は、ベッドを起こしてもらっていた。嚥下があまりうまくいかず、肺に水がたまり、心不全を起こしていたようだ。熱も下がり、落ち着いていた。私の顔を見て、わかり、私の名前を呼んでいた。妹のこともわかった。一安心した。手を握って離さない。寂しい、不安な気持ちなのだろう。こんな風に入退院を繰り返していくのだろうか。

    明石駅の近くにある魚の棚でチリメンジャコや、干物の焼き鰯などを買った。トマトも京都とは比べものにならないほど安い。トマト4個で200円。近くの農家から仕入れているからだろう。神戸で暮らしていた頃、母がよくこの魚の棚でお魚を買ってきて、いろんな料理を食べさせてくれた。新鮮でおいしかった。

京都は野菜も魚もお肉もすべてを他の場所から運ばれてくるので、多少価格が高くなる。北陸から鯖を運んできた、鯖街道がいまでもある。

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左京区総合庁舎と銀行と美容院

 ようやく仕事部屋の模様替えと掃除が終わった。朝の国会中継を聞きながら、本や資料などの片付けをする。安倍首相は官僚の誰かが書いた文章を早口で時々つまりながら読み上げる。誠実な答弁にはなっていない。言葉が宙にういて、納得できない無責任な虚しい言葉が 次々とでてくる。嫌な気分になる。

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朝からアメリカのトランプ大統領のことがニュースになっている。日本が意図的に為替レートを釣り上げているとまくしたてる。すでに日本のアベノミクスは破綻しているが、破廉恥にも安倍首相は言葉だけを踊らせ、10日にトランプ大統領に会いにアメリカに行き、会談後ゴルフをするそうだ。アメリカに媚びを売るのはなぜだろう。憂鬱な世界情勢になりつつある。

 夫の後期高齢者医療保険料の支払いに左京区総合庁舎に行く。上賀茂神社から左京区総合庁舎前までバスに乗る。その後、北大路・河原町の交差点のところにある京都銀行まで20分ほど歩く。これまで医療保険料は銀行引き落としをしていたが、後期高齢者の場合は、番号が変わっているので、再度銀行に引き落としを依頼しなければならないそうだ。最近ではあちこちにATMがあるので、よっぽどのことがない限り、銀行には行かない。

 銀行の近くに私の行きつけの美容院がある。立ち寄って、髪の毛をカットしてもらう。年末年始は母が入院中だったので、なかなか髪の毛をカットすることができなかった。白髪が目立ち始めたが、昨年4月から髪の毛を染めることをやめた。

 今日はかなり白髪が固まりとなって頭を覆っているのが目立つ。はやく真っ白な頭にならないかと思うが、私の髪の毛の質からすると、黒い髪の毛がかなり残るそうだ。ごま塩頭に。 

整体とテレビチューナとボブ・デュラン

 整体に行く。重たいものを持ったり、腰をかがめてファイルの整理や、本の移動をしたので、腰がいたい。身体の歪みを直してもらう。腰痛や肩こりが少し和らいだようだ。いつまで正しい姿勢で生活ができるだろうか。気をつけようと思うが。

 腕時計の時間が遅れるので大丸の時計屋さんで診断をしてもらう。電池切れなのかと思ったが、強力な磁気の影響で時計が自動的に止まったそうだ。磁気やリモコンの近くに時計を置いておくと、針が止まってしまうと説明があった。家のなかにはテレビや冷暖房機、自動照明灯など、磁気が動いているものがたくさん転がっている。生活が便利になると、不便なこともたくさんでてくる。

 仕事部屋のアナログテレビを処分したので、テレビがない。ネットでテレビ放送を観ることはできるが、放映時には観られない。ニュースなどは同時間で観たい。AppleTVでコンピュータとテレビをつないで、テレビ側でネットを観ることができるのだから、逆も可能なはずだと思った。ヨドバシカメラで尋ねてみるとI-O DATAというコネクターが売られていた。

 私が使っている一番新しいマックは、iMacで、デスクトップの画面は27インチでかなり大きい。机の横にテレビのケーブルがあるので、それとつなぎ、デジタル用のB−CASカードをセットして、USBでコンピュータ側につなげば簡単にテレビ画面がでてきた。少し音声面で環境設定をしなければならなかったが、それほど難しいことではなかった。

テレビを観ながら、ブログを書くこともできる。

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 整体に出かける時、バス停で片桐ユズルさんに出会った。片桐ユズルさんはとても著名な詩人だが、京都精華大学では同僚として何年かご一緒した。今年86歳。とてもそんなお年には見えないほど、元気そうで何より。片桐ユズルさんは、日本アレクサンダー・テクニーク協会の代表で、「心身(すなわち自己)の不必要な自動的な反応に気づき、それをやめていくことを学習する方法。 頭-首-背中の関係に注目することに特徴がある。」

 片桐ユズルさんの講義で、人間の頭はボーリングのボールぐらいの重さがあり、それを背骨や腰の骨などが支えていることを具体的に教わったことがあった。だから、私のいまの整体の先生もアレクサンダー・テクニークを学び、それを整体の技術に取り入れている。

 片桐ユズルさんは、昨年のノーベル文学賞の受賞者ボブ・デュランの歌詞を日本で最初に翻訳したことでも知られる。受賞の発表後、ノーベル賞選考委員会はボブ・デュランとは連絡がとれず大変だった。片桐ユズルさんも日本のメディアから追いかけられて大変だったそうだが、ボブ・デュランが受賞したことはよかったと言われた。ボブ・デュランとは面識があるのか尋ねてみると、まったく出会ったことがないといわれた。日本でボブ・デュランのレコードを販売するときに歌詞を日本語に訳すよう頼まれたのがきっかけだったそうだ。ボブ・デユランと同世代のアレン・ギンズバーグを紹介したのも、片桐ユズルさんだった。一度ギンズバーグ京都精華大学に招待され、彼の講演会で彼の詩の朗読を聞いたとき、大変感動したのを鮮明に覚えている。

 片桐ユズルさんは、60年代、70年代の「ビートの詩人」たちが歌を通して、世に呼びかけたこと、社会を変革しようとした意思をいちはやく日本に紹介し、彼らと歩調を合わせていたのだ。