Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

京都地裁「国会議員の科研介入とフェミニズムバッシングを許さない裁判」に

 京都地裁にて、「国会議員の科研費介入とフェミニズムバッシングを許さない裁判」の判決が言い渡され、原告の請求がいずれも棄却された。不当判決だった。午後2時半からの裁判の傍聴に出かけた。傍聴席に入るのにはくじ引きだったが、私はそのくじももらえなかったので、外で判決を待つことにした。1分足らずの判決で終わり、原告4名と傍聴席に入っていた人たちが出てきた。原告4名とはこの10年以上も一緒にWAN(Women's Action Network) で仕事をしてきた仲間でもある。関テレで報道された。

京都新聞は次のように報道した。

 

 今日は多くの人たちと出会った。久しぶりに友人たちに出会った。「人と人は出会うが、山と山は出会わない」(スワヒリ語のことわざ)。

 場所を移して近くの「かもがわ会館」で説明会があった。弁護士たちや原告側の4名が出席して、これまでおよそ4年足らずの間に主張してきたことが一切認められなかったという。コロナ禍の中、裁判の傍聴はしばらくなかったが、それ以前には時々裁判を傍聴し、後の説明会にも参加してきた。原告の4名の方たちの主張は全て納得のいくものだったが、裁判長は全ての主張を反故にした。被告杉田水脈衆議院議員に忖度し、歴史修正主義を取り入れ、従軍慰安婦はなかったとし、フェミニズム研究へのバッシングをした。こんな裁判長を置いている日本の法体制に愕然とした。

 最近では「国際卓越研究大学法案」(「稼げる大学」を国が財政支援をする)が検討されている。そして日本学術会議会員拒否問題などともあわせて考えれば、国が教育や研究に介入し、歴史修正主義を強要する傾向がある。

 映画『教育と愛国』を制作した斉加尚代さんはこう発言した。「専門知が引き摺り下ろされる社会、ここまできたかと感じた判決。教科書の歴史記述の否定とフェミニズムの研究の否定はつながっている。研究者が真理の追究をできにくくする社会。学問への冒涜は憲法23条の否定ではないか。」と。同感。

 これまで学んできたこと、あるいは多くの人たちと共に研究してきたことが、否定され、歴史を逆行するようなことが起こりつつある。それらは全て人間の手によってである。生きづらい、生き難い社会にすることに手を貸したくない。 

バラはそれぞれが思い思いに咲き、他の邪魔をしない。それぞれの美しさを認め合って、競い合って、自らも美しく咲く。人の手を借りて、美しく咲く。人間社会はどうしてそうならないのだろうか。相手を、他者を、叩きのめして、上に出ようとするからだろうか。他者を支配したいからだろうか。