Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

6月30日 お習字とベキ・ピータソンお別れの会

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 29日(火) 午後からお習字のお稽古にでかけた。バラのお手入れが1時からあると誤解していた。カレンダーに書いていなかったのと、思い込みが強くあった。お習字は2時からなので、バラのお手入れを途中までして、お習字教室に行くつもりで、はやく家をでた。前回のお習字は、二回目のワクチン接種と同じ時間帯だったので、おやすみした。「高冠陪輦 驅轂振纓(コウカン・バイレン クコク・シンエイ)の後半部を書いた。車が走り出せば、冠についている纓の飾り紐がゆらゆらと揺れるという意味î。意味よりはこの千字文を手本にしてお習字を練習しているが、千の文字を使って、一字たりとも重ならない意味をなしているというのがすごいと思う。読み方もわからないが、それなりに漢字の形から意味が読み取れる。

 南アフリカ時間で午後12時からZoomで、”A celebration of the life, work and communities of Professor Bhekizizwe Peterson”に参加した。日本時間は午後7時から10時過ぎまで。司会はジェームズ・オグデ(ケニア出身、長年のベキと同僚)。ベキ・ピータソンはヨハネスブルグにある、ウィットウォーターズランド大学(ウィッツ大学)のアフリカ文学科の教授だったが、6月16日突然に亡くなった。ベキへの追悼式がオンラインで、同僚や元学生や、友人たちで開催された。私は、1995年1月から3ヶ月ウイッツ大学のアフリカ文学科でお世話になった。時々研究室で出会っていたが、最も最近では四年前にウィッツ大学で、アフリカ文学会の年次大会が開催され、彼が大会委員長を勤めた。その後もアフリカ文学会に参加していて、とても温厚で思慮深い人だった。この二年間はコロナ禍でアフリカ文学会は中止とオンライン開催となったので、ベキとは出会っていない。

 ジャブロ・ンデベレの追悼の辞は、さまざまなことを思い出させてくれた。私は知らなかったが、ンデベレは、ヴィッツ大学のアフリカ文学科の主任を務めていたのだった。その後ウェスタン・ケープ大学、ノース大学、ケープタウン大学の学長を務めてきたが、彼との出会いは1991年12月に、ウィッツ大学で開催された「New Nation Writers Conference」だった。この会議は南アフリカから亡命した作家たちが一堂に会した歴史的な会議だった。現南アフリカ大統領ラマポーサは、南アフリカ労働組合の議長として出席していた。ナディン・ゴーディマは会議中にノーベル文学賞の授賞式に出発した。南アフリカが新しい時代に変革していくプロセスで、アフリカ文学や舞台や映画などの創造的芸術などを通じて、新しい時代を創造してきた。ベキはンデベレの小説『愚か者』の映画化を手がけた。南アフリカ民主化した1994年以降に、『愚か者』を世に問う意義をベキは十分に考え、脚本を書いたという。感動的な話をしていた。とても物静かだったベキの姿が蘇った。本当に多くの人たちに惜しまれる存在だった。「貴重な人を失った」と誰もが語っていた。

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