Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

3月22日 ナワール・エル・サーダウィが亡くなる

 3月21日の朝に、ナワールが亡くなったことをFacebookで知った。1931年10月にカイロの郊外で生まれた。彼女の生涯は折々に小説やエッセイや講演録などに書かれている。

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 私はナワールに初めて会ったのは、1991年に南アフリカヨハネスブルグで開催された作家会議だった。しかし、ナワールを見かけたのは1985年ナイロビで開催された「国連女性の10年」の会議だった。その時の感想はすでに書いたが、ベティ・フリーダンから「政治問題は語らないで」と言われたときに、ナワールは「私は政治問題と女性問題を切り離すことはできない。それに、私はあなたが何を喋るべきかどうかなど何も言っていないのに、どうしてあなたは私に喋るべき内容まで干渉するの」とやり返したと言った。生涯彼女は自分の言葉と行動で「女性問題」と「政治問題」と闘ってきた。

 

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 私はサブサハラ以南と言われるアフリカを対象にアフリカ文学と関わってきた。ナワールはすかさずそうした態度を批判した。エジプトもアフリカ大陸だから、アフリカ文学の中にもエジプトも含めるべきだと。私は英語しかわからないので、夫のヘタタが英語訳にしたナワールの作品『〇度の女』を読み感銘を受けた。以後ほぼナワールの作品を英語に翻訳されたもので読んだ。『女たちの世界文学』を編集した際に、ナワール・エル・サーダウィを紹介した。ナワールはさまざまな講演会で招待されたときには、英語を使っている。

 ナワールとは、1996年8月にジンバブウェ・ブック・フェアーで再会した。それからスペインのマドリードで開催された「学際的国際女性学会」にナワールは招待されていた。「中東=Middle East」という呼び方は、ヨーロッパ中心主義の見方だと強く発言していたのを覚えている。そしてアメリカで開催されたアフリカ文学会には何度も招待された。よく覚えているのは、ベルギーで何かの賞を受賞したあと、2007年3月にウェスト・バージニアで開催されたアフリカ文学会に参加したのだが、その途中で列車のなかで原稿を忘れたのか、盗まれたのかで原稿をなくしたことを話した。とても意気消沈していた。そのあと、アメリカの南部の大学で仕事ができることを喜んでいた。その時に撮った写真を一日中探したが、見つからなかった。アフリカ文学会の女性部局が彼女に長いインタビューをした。その時に同席していたので、写真をたくさん撮ったがみつからなかった。

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 写真は1996年度のアフリカ文学会の機会にフマと一緒にとった写真。フマは私の30年来の友人。2年前にはノース・カロライナ大学で教えている彼女の自宅を訪れた。世界中どこにでも自由に行き来できた時を懐かしく思い出している。またそんな時が来るのだろうかとも?