Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

5月15日 Social Distanceの意味するところ

 毎日新聞の東京版5月13日づけの記事をネットで一部みた。記者は男性で、一人暮らし10年で、独身。28歳。人工知能(AI)を取材し、一緒に暮らす体験もしている。「癒しの花嫁」で知られる「逢妻(あづま)ヒカリ」は、彼の帰りを迎えてくれ、言葉を交わす。次第に親近感がわき、癒しの存在となるという。記事は最後まで読んでいないが、この記事を読んだ上野千鶴子さんはツイッターで、「TVで見て違和感が。AI花嫁は「お帰りなさい、マスターさま」という。「ご主人様」よりもっと露骨。「嫁」はしもべかメイドか。これに「花嫁」とつけるセンスもどうかと思う。」と言う。上野さんの考えはジェンダーの視点からみると、ごもっとも。

 とりわけ、今のコロナ状況のなかで、「ステイホーム」を余儀なくされ、夫からの妻への暴力、子供への暴力が増えている実態がある。この背景には固定的家意識からくる、「主人ー嫁」の関係が露呈するからだ。

 ややっこしい家庭内の人間関係を避けるには、AIの「花嫁」で代わりが効くと記者は考えているようだ。コロナ状況があり、「ステイホーム」で一日中家族が狭い空間に閉じ込められ、一切他の人との接触もなく、家族とだけ向き合うことになれば、普段からいい関係を築けなかった場合には、弱い立場の人に攻撃がかかっていく。そうした状況をさけるには、AIで済ませるというのであれば、人間社会はどうなっていくのだろうか。

 いま、ほとんどの人が2ヶ月以上も他の人との接触を避けて生活してきた。こんなことが「普通」になってしまえば、社会は崩壊する。コロナ感染よりも恐ろしいことが起こりそうだ。Social Distanceと横文字で語れば、それほどインパクトはないかも知れないが、本当のところ、「社会的距離をとる」とは、社会的、人間的関係を疎遠にするという意味で、人間社会にとってもっとも最悪な状況を作りだすことだと気づかせない。人間社会はSocial Communicationで成り立っているので、Social Distanceは人間関係を断ち切ることを意味する。

 「アベノマスク」はまだ届かない。配るのに莫大な予算と多くの時間を使っている。なかには不衛生なマスクが混じっていたので、それらをチェックするだけで8億の予算が使われているという。たった二枚のマスクを配るだけで466億円も予算化したことが馬鹿げているが、不衛生なマスクを日本に送ってきた製造元も、いい加減で日本人が馬鹿にされたということだ。政府は批判を交わすために、海外発注したマスクを、8億円もかけて日本の企業に手作業でチェックさせているという。だから、なかなか配れないのだろう。何度も言っているように、たった二枚のマスクを各戸に配るのではなく、医療用のマスクを必要としている医療関係者に配ることが先決ではないか。

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昨日は夏用のマスクをリバティの残り布で作った。個人はいろいろ工夫してマスクを手作りしている。天皇家の愛子さんは、手作りマスクを120枚作り、宮内庁に渡されたという。さまざまの所で手作りマスクを通じて助け合いが広がっている。安倍政権のプレゼントという「マスク」は現実的ではない。無駄遣い。マスクも洋服と合わせるとちょっとしたお洒落になり、楽しくもなる。

 

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 Bookcover challenge 7日目。最終回で紹介したのは以下。ヴェロニク・タジョ著『神の影ールワンダへの旅ー記憶・証言・物語』(村田はるせ訳)。タジョはコートジボワールの作家。1994年4月から100日間に80万人とも100万人とも言われるルワンダ人のジェノサイドが起こった。「記憶の責任プロジェクト」(1998年)に関わり、作家として、記録し、伝承していく役割を担った。二度と同じ過ちを繰り返さないために、耳を塞ぎたくなるような虐殺の現場を証言する人たちの声を忠実に再現した。作家の覚悟がすごかった。

 ヴェロニク・タジョとは、1991年にガアドループで初めて会った。アフリカ文学会に参加していた時だった。それから何度もアフリカ文学会や、南アフリカで暮らしていたときにも、ヨハネスブルグのご自宅に招かれたことがある。フランス語で書く作家だが、国際会議では英語でもスピーチをする。子供の絵本も書き、自ら絵も描く。とても柔らかい感性の持ち主だ。