Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

気がつくと1週間が過ぎていた

 コンピュータの前に座って、ブログを開けてみると、一週間が過ぎていた。毎日、毎日何をしていたのかと思う。 7日、8日、9日と午前中は整形でリハビリを受けた。少しはよくなってきたように思うが、それでも右腕を上にあげるのは辛い。痛みが伴う。年をとるとはこういうことかとつくづく思う。身体の不自由さが伴ってくる。

 8日はフランス語の授業にでた。未来における完了を学んだ。「直接法前未来」という。こうした表現にはなかなか馴染めないが、要するに英語でいう「未来完了形」のことだが、英語でいう助動詞を使わないで、be 動詞か、have動詞を活用させて表現する。日仏学院に何年も通いながら、こうした基本的なことが理解できていなかったことを大いに反省している。

 9日は植物園を散歩した。久しぶりに温室に入った。バオバブの花が咲いていた。一日花で朝に開花して午後には散ってしまうといわれる。以前にも見たことがあったが、白い花が咲いていたので、とてもラッキーな気分になった。カカオの実もできていた。ランはいつ見ても美しい。

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10日。久しぶりに下鴨神社に行った。糺の森はまだ紅葉は始まっていなかったが、静寂で心が癒される。下鴨で暮らしていた頃は朝の散歩コースで四季折々の植生に出会っていた。朱赤の建物や鳥居はひときわ際立ち、緑の森と青い空に生えていた。

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帰路、上賀茂神社を通りぬけた。京都の有名パン屋が集まり、パン祭りをしていた。上賀茂神社下鴨神社とは違い、大きな広場があり、大勢の人が集える場所がある。第四日曜日には手づくり市が開催されるのもそのためだ。パンを買おうと思ったが、長蛇の列だったので、やめた。最近に作られた憩いの場に寒桜が咲いていた。円形の小さなお庭だが、ヒノキの木の腰掛がフェンスの代わりにもなっている。

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11日、高校時代からの友人が京都に訪ねてきた。出雲路橋の麓に桜の木を植えた石碑があり、それを見たいというので、見に行った。「志波む桜碑」。日露戦争の戦勝の記念に京都府師範学校(現:京都教育大学)の教職員、学生、付属の小学生が葵橋から御園橋まで約3000本の桜と楓を植えた時の記念碑だという。私はそのことを知らなかった。京都で暮らすようになって、約45年近くになるが、出雲路橋の西と東、御薗橋近くで暮らしているので、この鴨川沿いの桜にはずっと馴染みがあるが、いわれを知らなかった。友人は俳句を詠んでいるので、この桜碑のことを知ったという。様々な時代の移り変わりを見てきた桜なのだと思った。

 安倍首相の「桜を見る会」についても、色々と考えさせられる。日本=桜=戦争への道に続くことがないように願いたい。私にとっては、宇野千代がなぜ桜に引かれるかというエピソードがいつも頭の中にある。宇野千代さんは、子供の頃、毎年お母さんに連れられて桜を見に行った時のことを語っていた。千代さんの家は貧しかったが、お母さんは「桜は貧乏人にも金持ちにも同じに咲く」と言ったという。誰も桜を見ることができるのだと。

 安倍首相の「桜を見る会」はどうも違うようだ。権力を握った人が、大判振る舞いをして、自分に従ってくれる人たちとだけ、「桜」を独り占めにする。日本の象徴としての桜=権力の誇示として利用。

 今入った速報では、来年から「桜を見る会」は中止だそうだ。やっぱり今年の「桜を見る会」はまずいことを認めたことになる。中止が、安倍首相への批判がこれ以上高まらないことを狙ってだとすれば、ひどい話だ。