Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

5月12日から21日までアメリカへ

  12日からアメリカに出かけていた。ノースカロライナにいる友人を訪ねて、その後、その友人と一緒にオハイオ州のコロンバスで開催されたアフリカ文学会に出席した。30年来の友人は現在、ノースカロライナ大学シャーロット校で教えている。彼女の家で4泊した。ノースカロライナアメリカの中でも、美しい州だということだった。ちょうど今、木々が緑に燃えていて、どこも美しい。彼女の家の近くの公園を散歩した。とても静かで犬の散歩に訪れている人たちもいた。アメリカ南部のシンボルとも言えるマグノリアの木とその花の大きさに驚いた。若い頃アメリカの黒人文学を読んでいたとき、北斗星を目指して、南部の黒人差別から逃れるために逃亡した奴隷たちは、白人に見つかると、リンチを受け、この大きなマグノリアの木に吊るされて放置された。誰も助けることができなかった。私の中に、マグノリアアメリカ黒人のイメージが強烈にあったので、感慨ぶかいものがあった。

 彼女が務める大学には植物園があり、そこも散歩した。緑が美しくほっとさせてくれる空間だった。柏葉アジサイシャクナゲなどは日本のものと同じだと思ったが、よく調べてみると、柏葉アジサイノースカロライナあたりが原産地だという。納得。別名がOakleaf hydrangeaにも納得。

 

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  友人が住む地域には、韓国やインドからの移住者が多く住んでいるので、スーパーマーケットにはその食材が多くある。友人は息子と二人で、冷凍餃子を焼くというので、大騒ぎをして作り方の説明文を読んでいたが、私が餃子を焼いたので、驚かれた。

 コロンバスに行く前日(5月15日)は、巻き寿司を作った。中身はしいたけ、厚焼き卵、人参、ほうれん草を入れた。海苔は日本から持参したが、すし米として売られている米は彼女の家の近くのスーパで購入した。世界中、どこでも寿司は高級な日本食というイメージがあるが、ほぼどこでも満足したことがない。私が作るお寿司の方がずっと美味しい。それに日本料理店と看板の出ているところでは、ほぼ台湾、中国、韓国、ベトナムなどの人が経営する料理店でまともな日本料理など出てこない。友人にも、私が作るものは日本料理だからと納得させてしまう。

 翌日のランチ用に巻き寿司を作る。半分に切って、アルミホイルで包んだ。トウモロコシも湯がいて、アルミホイルに包んだ。長時間のドライブとなる。高速道路をつききっていくので、ランチができるようなレストランは期待できないし、彼女はベジタリアンなので、ランチを持参するにがベストだ。

 案の定、翌日(5月16日)は7時過ぎに出発して、コロンバスに到着したのは午後3時ごろだった。多分一時間の時差があるので、現地時間は4時。5時からのジンバブエの作家ティティ・ダンガレンバの講演に間に合った。久しぶりに出会う友人たちと挨拶を交わし、無事に一年を過ごしてきたことを喜び合った。

 コロンバスの街の中心部にある大きなホテルで会議があり、多くの人がそこに滞在していたので、近くのレストランは突然の大勢の客にパニックっていた。注文した食べ物が届くまで、長時間待たされたが、その分友人たちとの会話が弾んだ。

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 5月17日の講演は、コーネル大学で教えるキャロル・ボイド・ディビスがアフリカ文学会の歴史を語った。私自身は約30年間も関わってきたので、どの項目も懐かしい気持ちで聞いていた。世界的に見ても文学が軽視される時代に、文学と関わるものが果たす役割を改めて考えた。彼女は若い頃、子供づれで文学会に参加していたことを思い出していた。

  5月18日。アフリカ文学会最後の日。いつものメンバーでパネルがあった。「2010年以降の南アフリカ文学」というテーマでそれぞれが話した。南アフリカ民主化が1994年から始まったので、それ以降、あるいはその頃に誕生した若い人たちが、新しい南アフリカ文学を形成しつつある。アパルトヘイトを体験した世代と、全くアパルトヘイトを知らない世代との間にはどんな問題があるかを問題提起した。私たちのパネルを聞きにきてくれた人たちと一緒に議論ができたことはよかった。

 夜の7時から恒例のバンケットは、文学会に参加していた人たちが一堂に会する機会で、多くがアフリカ・スタイルのドレスやシャツスタイルで現れるので、いつもながら大変豪華。

5月19日、10時30分発のコロンバス発ワシントンD C行きの飛行機に乗り、一時間待ちで成田まで帰ることになっていた。ホテルから空港まで15分ほどだったので、8時過ぎにタクシーで空港に向かった。空港では文学会に参加していた人たちと出会った。ところが、飛行機が飛んでこなかった。クルーの問題とだけのアナウンスで様子がわからないが、ワシントンD C経由でアメリカ国内を移動していく人たちは、航空便を変更してそれぞれに帰っていった。コロンバスからワシントンDCには3時間半遅れの便で向かった。空港に5時間以上もいたことになる。私は航路を変更したくなかったので、ワシントンDCから成田までは翌日便になった。翌日の昼の便は満席で空きはないと言われたが、絶対にそんなことはない。緊急に備えて必ず空席はあるはずだ。しかも航空会社の問題でこうしたトラブルに巻き込まれたのだから、少し強い目にお願いした。するとその席を用意してくれた。空港近くのヒルトン・エアポートホテルも準備してくれた。時間に余裕があったのでホテルで旅の疲れを取ることができた。

 5月20日。空港で、機械でチェックインをしていると、エコノミー・プラスの席があった。帰路はよくエコノミー・プレミアムを使うことがあったので、今回は2万円ほどの料金を払って、少し足を伸ばせる席に移れた。13時間の飛行時間をいつものように何本も映画を観て帰ってきた。翌日の5月21日に日付が変わっていた。