Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

根本利通さんの追悼の会に

     根本さんの追悼の会に出かけた。彼はタンザニアでジャタ-ツアーを起業し多くの人のお世話をしたので、200人以上が品川に集まった。開成中高時代の友人、反アパルトヘイト市民運動の人たち、京大時代の友人たち、旅行で世話になった人たち。妻さんの友人たち。ここで、私も久しぶりにあった人が何人もいた。

    私の夫とは40年来の知人で、私もよく知る。タンザニアでは自宅に招いてもらって、美味しい食事をご馳走になったことがある。また京都に来られた時には我が家に泊まったこともある。一昨年の正月明けには根本さんと夫はオマーンに一緒に旅をした。
    彼は京大で西洋史を学び、東アフリカの歴史を調べていた。千葉県の高校教師をしたあと、ダルエスサラーム大学大学院で研究を続けた。日本人学校で教師をしながら、気候など厳しい環境のなか、タンザニアに住み続けた。そして旅行会社を起業し、日本とタンザニアの架け橋となった。
 根本さんが学生だった頃、1977年 1月1日おお正月に我が家に遊びに来ていた。他にも立命館大の学生も二人いた。根本さんは当時京大の学生寮に住んでいて、ちょうど梨木神社の近くを通って帰ったそうだ。その直後に梨木神社爆破事件があった。のちに立命館大の学生がうちに遊びに来ていたかどうか、警察の聞き込みがあった。彼らの名誉のために証言したが、要はお正月に郷里に帰らぬ学生は、京都でよからぬことを企んでいるのではないかという疑いである。京大の学生寮に聞き込みがあったとすれば、それは大変な騒ぎになっていただろう。今ならば、明らかに、「共謀罪」でどんな学生も検挙の対象になる。