Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

ノーベル文学賞、ボブ・ディランに

10月13日(木)午後8時ノーベル文学賞の受賞発表があった。イギリスの予想屋、賭け屋ではケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴさんが一位、二位は村上春樹さんだった。グギさんがノーベル文学賞候補にあがって、もう10年近く騒がれているが、なかなかグギさんに文学賞はいかない。それは村上春樹さんについても同じだ。

 昨年は予想を覆して純粋は小説家、文学者ではなく、ルポルタージュや評論で顕著な功績があったベラルーシスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチに与えられた。今年も、グギと村上春樹のあとに続くアメリカのミュージシャン、ボブ・ディランに与えられた。

 グギと村上春樹とは、両極端なまでも文学手法が異なる。描く対象も違う。しかし、どちも多くの読者に読まれているが、読者層はまったく違う。そうした両極にいる作家をめぐって、ノーベル文学賞選考委員会は満場一致で誰に賞を与えるかで混乱しているのではないかと想像する。

私は村上春樹の作品はそれほど好きではない。特に女性の表現が男性の視点から描かれていて、作品に登場する女性像に違和感を感じている。それが好きだという人もいるだろうが。

 さて、グギさんは作品はアフリカやアジアやラテンアメリカの国でよく読まれている。被抑圧者の視点で現状を捉え、問題点を歴史の流れの中で明確にする。生命をかけて、英語から民族語に転換して小説を書き始たこともアフリカ文学の豊かな伝統を継承し、発展させてきた。個人と社会、国家、世界との関係を明晰に描いている。こうした歴史認識に立った作品をよしと思わない「文学愛好家」が多いことも知っている。政治がかった作品がいやなのだ。

 だが、私たちがいま、日常を生きていて、嘘やデタラメに塗り固められた政治状況に振り回されているが、まさにその渦の目のなかにいる人々が発する言葉に真実をみつけだすことがある。嘘やデタラメを暴く力は、真実を知る人々の声のなかにある。その声に耳を澄ますことが、日常を生きるということではないかと思っている。

 私がグギの作品を通して、アフリカの歴史や社会、人々の生活を知り得たことは、私の貴重な財産となり、私がアフリカ文学を理解する指針になっている。その意味でも「一粒の砂」に世界をみることがで来ているのだ。そうした視点を与えてくれたのがグギだった。

 ノーベル文学賞をグギはもらっても、もらえなくても、まったくそんなことに振り回される作家ではない。最近、韓国の女性作家賞(パク・キョング二文学賞)を受賞した。土地を主題として描いてきた功績によるものだ。ケニアと韓国は植民地支配を受け、土地没収が民衆の生活を困難に陥いらせた点では共通する。グギの文学はケニアだけでなく、同じく植民地支配を受けたアフリカ、アジア、ラテンアメリカの地域で受け入れられている。