Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

映画「ケープタウン」を観に行く

第66回カンヌ国際映画祭アウト・オブ・コンペティション部門正式出品作品映画『ケープタウン』を京都のイオンモールの中にある映画館でみた。原題はZuleだが、なぜか日本語タイトルが「ケープタウン」。これは売れ筋を狙ったのだろうか。私自身はケープタウンという言葉にひかれて足を運んだ。結果からいえば、アクション映画、人が何人も殺される映画はきらいだ。銃で撃ち殺したり、拳骨で顔が潰れるまで殴り殺す場面が何度もでてくる。その度に恐ろしくて、画面から眼をそらした。
 映画の背景となっている町並みや海岸や通り、植物園、ラグビー球場、墓場、タウンシップ、病院、警察、どこもかしこも知っているところが次々と出てくるので、親近感がわく。だが、印象として、ケープタウンの町で暮らす人々は、犯罪とセックスと麻薬、暴力に塗れていて、恐ろしい社会だと思ってしまうだろう。たとえ映画であっても。
 映画のストーリは、1978年、アパルトヘイト時代にアフリカ人だけを殺す薬を開発しようとしていた。映画はいっきに25年後の2013年に話はとぶ。南アフリカは1994年に民主化され、建前上人種差別がなくなった。だが、現実は過酷。一人の白人女性が殺され、植物園の中のしげみで発見される。主に二人の警官がこの事件の解明にあたる。その捜査の過程で、彼女は薬物ドラッグを使用していることが判明するが、これまでにない新種の成分が含まれていた。タウンシップで子供たちが行方不明になる事件が頻繁に起こっていた。死体で発見された子供たちが使用していた薬物と同じであることが判明する。アパルトヘイト時代からずっと続く新種の薬物の開発研究が行われていることが、判明していく。子供たちの死体は豚の餌になっているというショックな場面もあったが、子供たちが薬物の実験台にされていた。どの程度の量を、どれくらい常用すると、精神や肉体がどうなるかを研究していたのだ。子供たちが犯罪を起こしたり、暴力的になるのは、こうした薬物が原因だったという。
 一人の警官はズールー人出身のアフリカ人でアリという名。子供の頃に警察犬に追われて、ペニスをかまれてしまった。男性としての機能を失った男だ。そのために、彼の性行動は奇妙だ。恋人の裸体に触れるだけで満足し、お金を払って恋人の生活を支えるという奇妙な関係だ。もう一人の白人警官はブライアン。妻と離婚し、子供からも軽蔑されている。とっかえ、ひっかえ、女性とセックスを楽しむ。四六時中アルコールにも溺れる。どうしようもない警官だが、一人で薬物を開発している会社に乗り込み、データーを盗みだす。この二人の警官が悪を暴きだし、ナミビアの砂漠の中にある開発研究所に乗り込んで次々と人を殺して行く。最後に砂漠の中に逃げ出す社長を追いつめ、殺すのはアフリカ人のアリ。彼自身も拳銃の打ち合いの中で負傷した傷のために最後は果ててしまう。そのアリを最後に探しにくるのがブライアン。そこで映画は終わる。
 徹底して、腐敗した社会を暴きだし、皆殺しにしていく映画だった。どこに希望の出口があるのかと思った。アクション映画とはこういうものなのか。
 私が散歩をしに出かけていたカーステンボッシュ植物園や、インド洋に面したミューゼンバーグや、テーブルマウンティンを大西洋側からみえる海岸沿いや、お金持ちの人たちが住んでいるキャンプス・ベイ地域などの美しい景色は、映画のストーリの醜さやアフリカ人タウンシップのカイリチャでのアフリカ人の生活と対象的に描かれていた。アパルトヘイト時代から変わりない人種の境界線があるのは現実ではあるが。。。。