Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

8月11日(日)ネヴィルを語る夕べ

 ウォーターフロントのいつもの喫茶店でメール、チェック。Wifiは前の携帯電話屋のフリーWifiを使っていたが、せっかくe-CaféもフリーのWifiがあるのだから、つないでみようと思った。いつもホームページがでてくるのだが、その後の処理がわからなかった。ふつうなら、loginとかagreeというページがでてくるのだがでてこない。近くのテーブルでコンピュータで仕事をしている人がいた。尋ねてみると、簡単につながった。実はそこのカフェのマネジャーだった。とても親切に教えてくれた。そのうえ、私が借りているフラットの近くに同じいつも会社が経営するフリーのWifiがあることを教えてくれた。
 ウォーターフロントではだいたい2時間ほど座っている。安全だが、駐車料金が高いのに驚くが、日本とは比べものにならないので、文句はいわない。
 夕方にカレン、ジェームズ、カゼイアがやってきた。カレンとジェームズは昨年ネヴィルが肺ガンだとわかったときから、ずっと看病してきた。それまでは身体に何の兆候もなく、ネヴィルはとても用心深く健康診断をきちっと受けていたという。突然病魔に襲われ、もっともたちの悪いもので急激に進行するものだった。本当にあっと言う間に亡くなったのだが、彼はとても気丈部だったという。亡くなる直前まで著書の原稿を書き、学生の博士論文のスーパーバイザーをしていたという。
 私がネヴィルとカレンに初めて出会ったのは、1994年5月、ヨハネスブルグのトランジットの待合室だった。私はジンバブエに行く途中、ネヴィルたちはモーリシャスに会議にでかける途中だった。南アフリカでは初めての全人種による選挙が終わったばかりだった。ネヴィルはワーカーズ・リストの党首として選挙に出馬していたが、惜しくも負けた。ANCがマジョリティとなった選挙だった。私もネヴィルたちもケープタウンに戻ってきてから、正式に会うことになった。ケープタウン大学のバクシター・シアターの食堂で自己紹介をして以来、いろんな情報やアドバイスをくれた。南アフリカ中が活気に溢れ、あちこちでさまざまな集会があり、活発な議論があった。とても刺激的な時代だった。あれから19年がたち、いろいろと変化がある。人も変わり、社会も変わり、政治も経済も日に日に変わって行く。だがこの間、ずっとネヴィルからいろいろと学んだことが多い。
 カレンとジェームズは最もネヴィルに近い友人だった。ネヴェルは亡くなったあと、 ズマ大統領からMzansi賞を授与されたという。ネヴィルがもし生きていたらそのような勲章や賞を受賞することを辞退しただろうと。何度か大臣職をオファーされても断り続けていたし、人びとと共に歩んできたからだ。いろいろとネヴィルの話を聞くことができた。手巻き寿司、日本風野菜煮込みシチュー、サラダ、フルーツポンチを食べた。寿司海苔を持参してきてよかった。