Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

1月17日に思う

阪神大震災から18回目の1月17日がやってきた。18年前のこの日、私はヨハネスブルグにいた。前日の16日は娘の誕生日で夜に国際電話で誕生日のお祝いを言って、電話を切った。娘は信州にスキーにでかけていて、予定を変更して16日の夜に帰ってきたという。予定は深夜バスで大阪まで帰ってきて、そのまま職場に直行だった。
翌朝のSABC(南アフリカ放送局)の朝の7時のニュースをみた南アフリカの友人たちが電話をかけてきて、「大丈夫か?」と聞いてきた。自宅からは「大きな地震があったが、みんな無事だから」という電話があった。
私はどういうことかまったく状況が飲み込めなかった。当時暮らしていたフラットには、テレビがなかった。友人の家にかけつけ、テレビで震災のことを知った。阪神高速道路が折れて崩れていた。多くの人が瓦礫の間を寒さで震えている姿が映し出されていた。家族が大変なのに、多くの人たちが線路沿いに歩いて出勤していた。あまりの出来事に動転した。
車に戻ったとき、車のエンジンをかけ、キーは差し込んだまま、車のドアーをロックしていた。通勤時間帯で、しかもヨハネスブルグの町のど真ん中、人通りが多いところに車を駐車していた。窓ガラスを割れば、簡単に車は盗める状態にあった。ありがたいことに、車は無事だった。ロードサービスを呼び、車のドアーをあけてもらった。
私はフラットに帰り、神戸に住む母や兄に電話をした。大阪の妹にも電話をした。友人たちにも電話をした。友人の一人はいまだに南アフリカから電話があったことを、とても励まされたと、感謝される。当時は国際電話だけがうまくつながったという。兄から「水がほしい」というのを、妹に伝えた。妹はすぐに宅急便で送ったという。
 当時携帯電話の普及率は、450万台程度。現在は1億2000万台。当時は、安否確認に携帯電話はほとんど役にたたなかった。公衆電話さえもなかなかつながらなかった。
東日本大震災の3.11にも、多くの人が携帯で家族や友人の安否確認をとろうとしたが、とても困難な状況だったという。電気系統が壊滅状況のなかで、携帯電話つながらなかった。だが、多くの人は財布よりは携帯電話を持ち出したという。ますます携帯電話に依存するコミュニケーションのあり方への警鐘ととらえたい。
 阪神大震災の追悼行事が催され、東日本大震災の犠牲者をも弔い、痛みを分かち合ったというニュースが伝えられた。大震災の記憶が風化しないようにしなければならないし、はやく東日本大震災からの復興を願わずにはいられない。とくに福島原発事故は私たちに大きな教訓を残した。絶対に原発依存社会から脱却しなければならない。