Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

ネヴィル・アレクサンダーさんの偉大さと優しさ(その2)

 ネヴィルは、1936年10月22日に東ケープ州のクラドックで生まれた。父親は大工で、母親は教師だった。母方の祖母は、1888年にエチオピアで子どもの頃奴隷となった。その後解放され、東ケープ州のラブデールに連れてこられた。よくネヴィルの顔のことが話題になると、エチオピア人の血が混ざっているので、彫りの深い美しい顔立ちだということになった。ついでにいえば、アパルトヘイト・ミュージアム(ヨハネスブルグ)は、ある意味ではマンデラ・ミュージアムという感は否めないが、最後のパネルにマンデラと一緒に投獄されていた若き日のネヴィルがいる。その顔は輝くばかりに美しい。
 ネヴィルは、地元のクリスチャンの学校に通い、のちにケープタウン大学で学んだ。1961年にドイツのチュービンゲン大学でゲアハルト・ハウプトマンの劇作に関する博士号を取得した。帰国後はケープタウン大学で教鞭をとった。
 1960年のシャープヴィル事件の後、1961年にネヴィルが南アフリカに帰国後、「南部アフリカのアフリカ人民主連盟」(the African People’s Democratic Union of Southern Africa (Apdusa))で革命に関する議論の口火をきった。the Yu Chin Chan Clubを結成した。マーカス・ソロモン、ケネス・エイブラハムズ、フィキレ・バムなどが参加した。後にはthe National Liberation Frontと名称変更した。
 ネヴィルは1963年に逮捕され、1964年に有罪判決をうけ、ロベン島に10年間拘禁された。ウォーター・シスルやネルソン・マンデラらと政治的な問題を議論し、教育の場に変えていた。ロベン島での生活改善要求等もした。彼の考え方は、1979年に出版した『ひとつのアザニア、ひとつの国家』に詳しい。いずれ紹介したい。ナショナリズムに関してはマルクス主義を解釈し、その限界と可能性や結果に思いを馳せた。
 1981年に、「南アフリカ高等教育のための委員会」the South African Committee for Higher Education (Sached)の所長となった。さらにアフリカ人学生がケープタウン大学に入学準備のために、カーニャカレッジを設立。
 1983年にはサッツ・クーパー、リボン・マバサらとNational Forumを結成した。デズモント・ツツ、アルベルチナ・シスル、エマ・マシニニらが顧問となった。アザニア国家構想をし、抑圧されている人々の組織と連帯し、資本主義を転覆させて、国家の資本を平等に分配することを願ったのだった。
 アパルトヘイトが激化していた1985年にはthe National Language Project を設立し、南アフリカの言語問題を本格的に議論にのせた。さらに1992年に the Project for the Study of Alternative Education in South Africa (PRAESA)をケープタウン大学の中に設立した。
 私は1994年4月から1995年3月までケープタウンヨハネスブルクで、さらには2006年9月から2007年8月までケープタウンで研究の機会を与えられた。1995年から2006年までも間も何度となくケープタウンを訪れ、PRAESA 活動に関わらせていただいた。特に、PRAESA主催のケープタウンで立ち上げた「ランガ読書クラブ」には設立準備会から参加させてもらった。いまでは南アフリカの各地に「読書クラブ」が誕生し、子どもたちが「読書」を通してマルティリンガルを体現している。マルティリンガル社会を作る地道な作業を積み重ねている。ネヴィルの精神は後進に確実に受け継がれている。詳しくは、『わたしの南アフリカケープタウン生活日誌から』に(第三書館)紹介。
 ネヴィルが亡くなってしばらく何も手につかずにいた。南アフリカではさまざまな所でネヴィルの追悼式が行われている。ネヴィルの偉大さと優しさを改めて知った。