Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

8月27日、ネヴィル・アレクサンダーさんが亡くなる

 今日一日、忙しくしていたので、コンピュータに向き合ったのが、夜の10時頃だった。フェイスブックに、ネヴィル・アレクサンダーの顔写真があり、Hamba Kahle comrade Neville Alexander 22/10/1936-27/08/2012.とあった。なぜ? 27/08/2012 なの?。Hamba Kahleはコーサ語で「さようなら」という意味だが、どうしてこんなことが書かれているのだろうかと思った。
 一週間前に、ネヴィルの治療方法を変更し、治療が終わったばかりだという知らせを受け取っていた。すこし呼吸が短くなっているが、あまり心配ないという印象をうけていた。あまりにも早く天国に行ってしまったことに、いまどう気持ちを整理すればいいのかわからない。
 ネヴィルとはじめて出会ったのは、1994年5月だった。私がちょうどサバティカルで、大学から一年間の研究休暇をもらって、Western Cape 大学でアフリカ文学研究することになっていた。ネヴィルの名前は野間寛次郎著『差別と反逆の原点』でその何年も前に知っていた。ネヴィルは、1964年から1974年までロベン島に投獄された反アパルトヘイトの闘士だった。ネヴィルが投獄されたとき、ドイツ留学中に出会った日本人に宛てに出した長い手紙が野間さんの本の中に翻訳され、紹介されていた。とても印象深い手紙で、手にとるように南アフリカの状況がわかるものだった。ネヴィルは、Non-European Unityを結成し、夜間学校を開設し、多くの人たちに識字の機会を与えた。そのためにロベン島という監獄島に10年も収監されたのだった。
 ネヴィルの顔がしっかりと私の頭の中に入ったのは、1994年の人類初の全人種参加の制憲議会選挙に、ネヴィルはワーカーズ・リストの党首として立候補し、南アフリカのテレビ番組によく登場していた。ANCとは違う鋭い意見やコメントに引きつけられるものがあった。
 そして総選挙が終わり、日常に戻ったときに、理由はいろいろあったが、私は南アフリカを脱出したくなった。友人のいるジンバブウェに出かけた。ケープタウンからヨハネスブルクまで国内便で移動し、ジンバブウェのハラレに出かけた。ケープタウンからの便にネヴィルが乗っていた。彼はモーリシャスに出かけるためにヨハネスブルクの空港で乗り継ぎ便を待っていたのだ。私はこの機会を逃すと彼に会えないかもしれないと思い、勇気を出して話しかけた。彼は1週間後にはケープタウン大学に戻っているので、連絡をしてくるようにと言ってくれた。私はとてもうれしい気持ちになった。
 ケープタウンに戻ってきて、ケープタウン大学のバクシター劇場のレストランでネヴィルと出会った。静かに私の南アフリカに対する関心等に耳を傾けてくれた。その後は、機会ある毎にさまざまな催しに誘ってくれた。そこで多くの人たちと出会い、南アフリカが抱えている問題を内側から知る機会が与えられた。あのときネヴィルに声をかけなければこれほど深くネヴェルの活動に関わることができたかどうかはわからない。
つづきは次回に)