Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

4月13日(金)ダラスでJFケネディを思う

 1963年11月22日にダラスでJFケネディが暗殺され、そのことが世界同時ニュースで流れた。私は大学の食堂のテレビでその映像をみたのを今でも鮮明に覚えている。日本で初めて衛星放送配信のニュースだったので、世界中の人びとを驚ろかせた。その時からアメリカの歴史は大きく変わった。
 私が所属しているアフリカ文学会の年次大会がこのダラスの町で開催されることになった。ケネディを狙った建物(教科書倉庫)の6階がミュージアム(6F Museum)として保存されているので、会議の途中に抜け出して、訪れてみた。当時のケネディの活動、人びとのケネディに対する熱狂ぶり、新しい時代を作り出すケネディの政策などが写真とビデオで展示されていた。それらの説明をヘッドホーンで聞きながら、一枚一枚の写真を見て回った。
 犯人とされるオズワルドがケネディに向けて発砲したライフルが発見された場所、建物の6階のコーナは、ガラス張りで保管されており、立ち入り禁止。
 この建物の正面の6階の右端から発砲があった。すぐ下の通りをパレードしていた3台目のオープンカーにケネディ夫妻とその前にテキサス州知事夫妻が乗っていた。ケネディは当時47歳の若き大統領だった。右の写真に映っている前を走る白い車あたりが、ケネディを載せた車が狙われた場所。後ろの赤い建物の6階の右端から発射された。
 ケネディは、アフリカン・アメリカ人に公民権を与えようとしたことや、キューバ問題、ソ連との核脅威、等など多くの問題をかかえていた。当時私が知ったのは、ケネディカトリック教徒であったこと、アイルランド出身であったこと、いわゆるWASPでなかったことなど、アメリカ人の根底にある「人種」に対する差別意識だった。ケネディの事件をきっかけに私はアフリカン・アメリカの問題に関心を抱くようになった。何十年も時間が経ち、アメリカはバラク・オバマを大統領に選んだ。確実にアメリカの歴史を変えた。そして世界中からアフリカ文学研究者がダラスに集い、「人権と文学と芸術」について語る。私の人生の原点に帰ったような、なんとも不思議な気がした。


 ダラスの町には日本料理店もあるが、メキシコ料理店がめだつ。レストランには壁には何台ものテレビがかけてあり、同時に野球、ゴルフ、サッカー、ニュース番組などが流れている。大きな声で談笑しながら、ときどきテレビに眼をやりながら、タコスをほうばる。テキサスのレンジャーズの試合はテレビでずっと流れっぱなしだが、一度シアトルマリーナズとの対戦があった。イチロウはやっぱりどこでみても格好がいい。ベンチのところにいたイチロウのところにファール玉がとんできて、その玉をひろえなかったキャッチャーが、イチロウにいちゃもんをつけている場面が写し出されていた。どんな場面でもイチロウはさわやかで、格好いい。

通りで出会った若者は、レンジャーズのユニフォームを着ていたので、ダルビッシュのことをたずねた。その若者は日本人のハーフだと誇らしげにいい、ダルビッシュを応援していた。結構地元ではレンジャーズは強く、人気がある。古い建物の間に、新しいデザインのビルが建ち並び、まるで建築ショーをみるような楽しい町。セブンイレブン発祥地とは知らなかったが、たしかにあちこちに目立つ。

ケネディ暗殺からそろそろ半世紀がすぎる。アフリカ人や日本人に対する人種偏見が薄らぎ、ダラスの町でアフリカ文学会が開催されたことに、歴史の流れを感じ、身がひきしまる思いだ。