Mwenge Keikoのつれづれ日記

アフリカの人びとや文化の出会いを通して

『マダムたち』雑感

 まだ入院生活つづけている。突発性難聴の治療にはストレスがよくないと毎回いわれ、その度に期限つきの仕事から逃れないストレスがたまっていた。ようやくそれを終えることができた。できたての原稿をここに載せるわけにはいかないので、多少なりと精神的重荷がおろせたことだけを書いておきたい。まだまだしなければならないことは、山のようにあるが、時間の余裕がある限り、少々眼をつぶっておこう。
 シンガポールで読み始めた『マダムたち』という本は、南アフリカの若手女性作家(ズキスワ・ワーナー)の第一作目の小説。入院のお陰であっという間に読み終えたが、ここ数日その作品のプロットの展開や扱っているテーマについて考えていた。
 ズキスワ・ワーナーとは2006年ダーバンで開催された作家会議で出会った。アフリカ人女性作家たちの討論会で、彼女は「アフリカ人」「女性」とレッテルを貼られたくないと、南アフリカセネガル出身の先輩女性作家たちに噛み付いた。先輩たちは「女性」であることで、いかに文学界で無視されたり、バッシングを受けてきたかを話し、「アフリカ人女性作家」を主張することが重要であったかを力説した。「みえない存在」にされてきた女性の状況をようやく作品を通して、「可視化」してきたのだ。
 私は、若い人たちが過去の遺産を受け継ぐことなく、自分たちだけでやりたいようにやるのだといわんばかりの傲慢な態度にがっかりした。そんなわけで、ワーナーの小説をなかなか読む気にならなかった。
 彼女の父親は、南アフリカから亡命して、ザンビアルサカに本部を置いていたアフリカ民族会議の闘士として祖国の解放のために闘ってきた。彼女はそこで誕生した。海外で教育を得て、ハワイで大学教育を受けた。アパルトヘイト後の南アフリカに初めて帰国し、その果実を謳歌する生活が保証された。彼女自身は、アフリカ人か白人かという「人種」、男か女かという「性」のカテゴリーのとらわれない「新しい生き方」を求めた。「解放闘士の子ども」というレッテルも疎ましいという。

 作品の簡単なあらすじ。
 主人公(タンディ)は中産階級のアフリカ人で、旅行代理店に勤務し、かつての白人地区に住む。夫と5歳の息子がいる。仕事と家事で忙殺の毎日にストレスがたまっている。アフリカ人(ノシズウェ)と白人(ローレン)の家庭を持つ友人が隣人にいる。彼らはアフリカ人の家事労働者(メイド)を雇っているので、子育てと家事からは解放され、仕事に精を出すことができる。タンディの夫はアフリカ人の医者で、仕事一途で家庭のことは妻に任せっきり。タンディは白人のメイドを雇うことで、白人の友人の反応を試し、優越感を感じたかった。息子に白人の言語(アフリカーンス語)を、メイドから学ばせたかった。かつての支配者の言語は、民主化後も教育と職業に重要だからだ。週末にはブランチを家族ぐるみや、妻どうしで楽しんだりする。かつての「白人マダム」の生活を実践する。
 3人の女は表面的に仲がよさそうだが、それぞれが抱える問題が次第に明かされる。ノシズウェは、アメリカの大学で知り合った同胞だった。子どもが産めないので、結婚する以前に夫がつきあっていた二人の女性の間にできた二人の子どもを引き取る。面倒をみるのは彼女の遠縁にあたるメイドだ。やがて夫はそのメイドと性的な関係を持ち、妊娠させてしまう。夫婦仲は悪化し、引き取っていた二人の子どもを実母に返す。メイドを首にするが、遠縁であるため面倒なことがある。彼女の生活費や子どもの養育費の問題が浮上する。ノシズウェの選択は、夫の詫びを受け入れ、何事もなかったかのように、「夫婦」をつづける。メイドとの間に産まれてくる夫の子どもを、夫婦の子どもとして登録することにした。彼女は「子育て」に新たな期待をかける。
 もう一人の友人ローレンは、白人で大学の教員。あるとき女3人でスパに行き、マッサージを楽しむ。この時のインストラクターに恋をする。彼女は良妻賢母を演じてきたが、実際には夫から家庭内暴力を受けていたのだ。体中は傷だらけで、友人に気づかれないような服を着ていた。「夫に聞いてから」を口癖にし、何も自分で決定できない人だった。インストラクターには心も身体も開くことができたのだ。彼女は夫から殺されそうになって、友人に助けられた。世間体にとらわれ、「偽り」の自分を演じるのをやめ、ようやく夫と離婚することができた。
 最後に主人公自身の問題が明らかになる。息子が6歳になり、よき白人メイドにめぐまれ、仕事も順調。しかし、夫との関係は冷めてきたことに不安を感じ始める。夫を映画やレストランに誘ったり、ホームパーティをする。人前では「良き妻」「良き母」を演じるが、本意ではない。夫は医者の仕事を口実に帰宅が遅くなったり、帰らない日もつづく。夫は週末に息子を祖母に会わせるという口実で連れ出す。夫は元恋人と密会を続けていたのだった。夫への復讐のために彼女は誰にも行方を告げずに旅にでる。そこで出会ったアメリカ黒人男性とその場限りのアバンチュールを楽しむ。夫に問いつめられ、彼女は真実を告げるが、夫は彼女の元を去っていく。

 この作品の周辺には、「放埒の夫の性の犠牲者」と言い切る母親がHIV/AIDSで苦しむ話や、白人メイドがアフリカ人女性とレズビアンとして新しい人生を出発させる話等、現代社会が抱える様々な問題が散りばめられている。ポストアパルトヘイトの時代に、若い人たちは経済的自由を手にして、安定した「結婚生活」を得たかにみえるが、現実には人間関係が作れない状況を、「若い」「女性」作家ワーナーはこの『マダムたち』という作品で明らかにしようとしたのだろう。

 「結婚」というテーマは、世界中のどこでも、人生の選択には大きな問題として立ちはだかる。「愛」だとか「恋」だという段階を越えて、「結婚」とはいったい何なのかを問う。ワーナーは「語りの手法」を通して、女友だちの心を解き放つ。夫から妻への暴力は社会化され、結婚制度の中で強化されていき、外には開かれていかない。夫の権力誇示と男性性の強調により支配の構造を強化することを見抜いてはいる。世間体や世間からの非難をかわすために、秘密裡におこなわれた夫の婚姻外の性的関係は、HIV/AIDSの感染を婚姻生活に持ち込み、結婚生活が安全圏ではなく、脅かしていくことも明らかにする。アフリカの女性たちには、健康や安全を犠牲にしてまでも、結婚生活に留まらない選択肢もある。真に結婚生活に求めるものを問い始めた。そんな作品だった。